HIROSHIMA ヒロシマへ
2011年 07月 31日
11時半ごろだったので、見学の前にこちら、で腹ごしらえ。広島風お好み焼きです。インテリアは昭和レトロを目指していて、電気の笠なんかも三角錐ので、扇風機もわざわざそんなイメージのを使っていました。
夫は『スペシャル」で¥1000、私は肉玉、そばで¥680。感想は、うーん、倉敷のふるいちのお好み焼きのほうがふんわりしてボリューム感があって、豚で450円、だし、鉄板のお皿で冷めないしいいなと思います。
私は学生時代に広島出身の先輩の家に泊めていただいてこのあたりを見に来たことがありましたが、先輩曰く、昔の、補強工事がされる前の原爆ドームはひび割れなどもあってリアルでもっと迫力があったのだそうでした。
平和記念公園のあったあたりの昔の航空写真もあり、あの辺りは繁華街だったので1,720世帯、5,949人が住んでいたと推定されるそうです。その町が1発の原爆でごっそり無くなり、その跡地に作られたのがこの平和記念公園だそうです。
資料館のなかはいくつかのエリアに分かれており、
①被ばくまでの広島
②原子爆弾 開発から広島への投下まで
③戦争・原爆と市民
④核時代
⑤平和への歩み
⑥1945年8月6日
⑦遺品は語る
⑧熱線による被害
⑨爆風による被害
⑩高熱火災による被害
⑪放射線による被害
⑫救援・救護活動
…となっていました。
ケースの中にはその時刻で止まっている腕時計。
その脇に、「フラッシュ撮影はご遠慮ください」とありました。・・・ということは?フラッシュでなければ撮影可、と言うことでしょう。広くこの光景を世界に発信してください、との意図が感じられました。
こちらはその、人のやけどの程度を示す写真です。普通に私たちが見ることがあるのは1度(赤くなる)や2度(水ぶくれ)程度ですが、こちらの写真の人は5度。皮膚の表面が炭になるほどのひどいやけど。
資料館の入り口に近い展示コーナーで、若い母子が、燈火管制時のための側面が黒く塗られた電球を見ていて、親もよくわからないらしく何の説明もしてやっていなかったので、「爆弾を落とす目標にならないように電気を黒くしてあるのよ」と言って私が説明。そのあとで「もんぺ」が展示してあったのをお母さんは「ズボンよ」と言っただけでした。それでは子供たちに伝わらないなあと感じました。戦争に向かうためにそれまでの優雅な着物を仕立て替えてモンペにしなければならなかったという背景を。
私自身は戦後に生まれていますが、親から話して聞かされた体験談を聞いて育った世代です。伝えなければいけないと思いました。先の大震災の時にも、古い伝承が役に立った地区もあると聞きます。災害や戦争の体験は体験者から伝わらなければまた過ちを繰り返すかもしれないと、思いました。
2歳で被爆したものの、運動が得意でリレーの選手になるほど活発だった貞子さんが、6年生の時に白血病を発症、治療費が高いのを気にしつつの闘病、千羽鶴を折ると願いがかなうと聞いて、薬の包み紙などで千羽鶴を折っていくのだけれど、とうとう・・・その後同級生たちの奔走でこの像がつくられたのでした。
広島の原爆記念日8月6日もあと1週間後です。今の子どもたちにも、この原爆のことをしっかりと伝えたり一緒に考えたりしたいものです。
by kurashiki-keiko | 2011-07-31 05:44 | しみじみしたこと | Comments(4)
詳細な説明有難うございます。
ポイントが良く分かりました。
あの様な悲惨な出来事は二度と起こしたくないですね。
只、もっと上手な戦争の収め方が無かったのかと悔やまれます。