長崎・上五島の旅を終えて

 今回長い間の念願だった上五島へやっと渡ることができました。夢は枯野を駆け巡るではないですが、まだ私の心は旅の風景を思っています。
 一番印象的だったのは、外海(そとめ)の、温石(おんじゃく)-緑紋片岩-というその地方に多く産出する平たい石を置いただけのキリシタンの墓標のことです。浦上ではその痕跡すら残さずに捨てられたという墓標やら遺骨も、外海ではびっそりと山の中に墓標を作ることができ、それでも名前を刻むことはできず、白い小石を拝むときにだけ十字架の形に置いて拝み、去る時にはその形を崩しておいた、という工夫、神父様の墓の上に神社を立ててカムフラージュしたということ。
 また、踏み絵を踏んできたら、許しを請う祈りの文句を唱えていたということ。
 上五島の教会群は、信仰を表だってすることができるようになった信徒たちの爆発するような喜びの表現だったように思えること。

 私はたまたま進学した大学の環境のおかげで二十歳で洗礼を受けましたが、結婚に際しては仏教の家庭に入りましたので、その矛盾に長い間ひそかに苦しんできました。幸い結婚式は姑の理解があったので、カトリック教会で挙げることができました。しかしその後のお盆の行事、さらに舅、姑が亡くなり葬儀やら法事を取り仕切ることになり、仏事には必ずお経を唱和しなくてはなりませんでした。自分がクリスチャンだからと言ってそれらを避けて通ることはできず、それでも敬愛していた舅・姑をしっかり送ってあげたいという思いからちゃんと家族とともに経文を唱え、法事をしてきました。
 教会にもこの頃ではクリスマスくらいしか行くことがありません。自称隠れキリシタンなどと言っていますが彼らにとても失礼だと思います。私にとっての信仰とは、と絶えず突きつけられる思いでずっとこの隠れキリシタンとかキリスト教伝播の地を訪ねての旅を五島の福江島、平戸、長崎、天草、島原、鹿児島、種子島、そして今回の長崎、上五島と十年あまりにわたってしてきたのでしたが、もちろん命がけで信仰を貫いたような彼らの信仰には及びもつかないものの、彼らの守り抜いてきた信仰の土台があって、明治になって信仰を許された時代に続々と表に出てきて大勢のキリシタンが表に出てきたこと、さらに今の各地の教会やら教団の普及となってきたのではと思うことなどがありました。世界のどこにもこれほどまでの迫害に耐え抜いて何百年も隠れて信仰を守り続けてきたところはないと思います。

 この旅のきっかけになったのは、NHKラジオで毎週日曜朝に放送されるクラシックの音楽番組「音楽の泉」での皆川達夫先生のお話でした。生月島(平戸の隣)のかくれキリシタンたちの「歌オラショ」を採譜して、それの元になった聖歌を探して旅して、なかなか見つからなかったけれども、やっとスペインの図書室の資料に、400年ほど前のグレゴリオ聖歌にほぼ同じものがあったのを発見したとのお話でした。それはその地方出身の神父が日本に伝えたものらしいとのこと。彼ら隠れキリシタンは、400年の長きにわたってそれを口伝えだけで伝えて来ていたこと。見つかれば殺されるという時代においても、村の納戸の奥にお祭りして祈りを唱えたり、また神父様から伝えられたキリスト教の暦(復活祭はその年によって移動することなど)をきちんと伝えていたことなど。
 華やかな天主堂の建物は写真に残りますが、それよりもこういった無形の遺産に強く心惹かれる者がありました。私などはそんな迫害があったらおそれてさっさと踏み絵を踏んでしまうことでしょう。私にとっての踏み絵は、家の葬儀や法事だったと思います。しかしそれでも神様に許しを請う祈りをささげること、こんなつまらない私もどうぞお許しくださいと祈ることで、なんとかつながっていけそう、と思えます。
 偉大な先駆者たちの後を表面上だけでもたどりたいという願いは、そういうことだったのかもしれません。

 敬愛するシスター渡辺和子先生のご講演の中に、洗礼を受けた時の話がありました。目の前でお父様を暗殺され、残されたお母様に「一番になりなさい」と厳しく育てられそれにこたえようと必死だったせいか「和子さんは鬼みたい」と言われ、そんな性格を変えたい、戦時下、このままで死にたくないと思って相談した母校双葉のシスターに、それならば洗礼を受けなさいと勧められ、当時住んでいた荻窪から四谷の母校まで(私は東京の地理に詳しくないのでよくわかりませんが)空襲を避けて防空壕に入りながら丸一日かけて歩いて出向き、母校のチャペルが焼け落ちる前の最後の受洗者になったそうです。そして、敵国の宗教に入るなんて、とお母様からはずっと口をきいてもらえなかったそうです。
 隠れキリシタンではありませんが、反対を押し切ってそれでも入信したというシスターの経験、私はそれほどの反対にも遭わず(当時親と離れて学寮でいたためもあり)あっさりと洗礼を受けてしまったために、強い思いも試練もなく来てしまったような気がします。
 キリシタンたちは、捕らわれることを避けるために踏み絵を踏み、帰宅してからひそかにその許しを請うお祈りの文句を唱えたと聞きました。意志の弱い私はそれを聞いてほっとしたところがありました。棄教しないで死を選ぶか、あくまでもどうにかして生きることを選び取り心に教えを守るか?
 ともかく、先の皆川先生のお話やらシスター渡辺の話やらにより、少しばかりの意識が高まったように思えます。相変わらず、教会に通ったり熱心に聖書を読むこともないぬるーい信者ではありますけれど、小さな犠牲的精神をもつ善意の人でありたいと願っています。
 
 調べていくうちに、皆川先生の家系は、かつてキリシタンを迫害した側にいたらしいこと、そのために余計に先生は歌おらしょのことを調べる使命感を持たれたらしいことがわかり、神様の仕掛けられたことの大きさを知ったように思います。


参考:皆川達夫先生の「オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし」のサイトはこちら⇒http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/orasho.html
上記サイトよりコピーさせていただきました↓
イギリス、フランス、ポルトガル、イタリア、とくにローマのヴァティカン図書館などと探しまわって、やっと七年目の一九八二年(昭和五十七年)十月に、スペインのマドリッドの図書館のカードにそれらしい聖歌集を見つけだすことが出来た。司書に請求した書が手元におかれたその時、体がふるえてきた。これに相違ないと直感したのである。ふるえる手で一ページ、一べージ開いてゆく。――「あった、あった。これだ、これだ」。
 まぎれもなく生月島の歌オラショ『ぐるりよざ』の原曲となった聖歌『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』、夢にまで見たそのマリア賛歌の楽譜が記されていたのである。
それは、現在なお世界中に流布している標準的な聖歌ではなく、十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていた特殊なローカル聖歌であった。それが、四〇〇年前にこの地域出身の宣教師によって日本の離れ小島にもたらされ、はげしい弾圧の嵐のもとで隠れキリシタンによって命をかけて歌いつがれて、今日にいたったのである。この厳粛な事実を知った瞬間、わたくしは言いしれぬ感動にとらえられ、思わずスペインの図書館の一室で立ちすくんでしまったのであった。

(みながわたつお・立教大学名誉教授、西洋音楽史専攻) 」

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by kurashiki-keiko | 2014-08-12 03:59 | | Comments(0)

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