恩師の死去を伝える喪中はがきを受け取って
2014年 12月 12日
そのお母さんというのは、私の学校時代に教えていただいた先生の中でも特別にお慕いしている人でした。5月3日に90歳で亡くなられたとのこと、いつまでもお元気でいてほしいお方だったので非常にショックでした。
最後にお会いしたのはいつだったかしら、とパソコン内の「同窓会」フォルダ中の「中学時代」をあけてみると、2005年に藤沢から帰省したFくんがぜひ会いに行きたいというけどあなたも一緒に行く?と誘われて5人でご自宅をお訪ねしたのが最後でした。その時80歳でしたが、お庭は草もきれいに抜かれており、お部屋の中もきれいに住まわれていて、思い出話には、資料も年代別に整理できているのでしょう、さっと出してこられて、私の記憶になかったこともちゃんと言われるのには驚いたものでした。
実は私の中学1年で最初に受け持ってくださった担任というのが、春の運動会の日、職員室が手薄になることを知ったうえで、集められた給食費約100万円を銀行員を装った共犯を使って盗み、夏休みに逮捕されるという事件がありました。兵隊時代にいじめられた経験を話したり、前科者は後ろ頭の首の所が縊れていないんだとか妙な話をしたり、ふざけていて教室のドアのガラスを割った男子たちを殴って泣かせたり(今ならその時点で大事件)、放課後うちのクラスだけ残って床のしみついた汚れを全員でたわしでこすり落とすというのをさせられたりと妙なところのある先生でしたが、世間的にはよい先生との評判だったようなのでまさか、と大騒動。
また、学年末にはクラスでバスケットボール大会をしようという事になり、先生が校長先生に掛け合ってくださり、体育館を借り切ってクラス内でバスケットをして楽しみ、体育委員のその「鈴木のよっちゃん」が自腹で賞品を用意していたのだと、先生がその最後の訪問の時に教えてくださいました。そしてそのイベントの記録係は私だったのだそうで、私自身忘れていたことを教えていただきました。
授業もとても面白くて、小柄な先生はいつも教室の後ろのゴミ箱を持ってこさせてその上に乗って黒板の一番上から書いておられました。教材の中では自作プリントを使って、私達の興味をぐいぐい引っ張っていってくださったこと、特にたいまつをもって飛び降りたケメトスという若者の話が面白かったな、といまだに覚えています。
そんな熱い半年を過ぎ、先生は転勤で他校へ行かれましたが、私は友達と何度かご自宅を訪ねて行きました。忘れもしない、11月23日、衛星中継が始まった最初のニュースでケネディ大統領の暗殺事件を聞いたのも先生のご自宅を訪ねていたときだったのが強く印象に残っています。
そんな数々の思い出のある、小柄な国語の先生、旧姓岡村千鶴先生。ご冥福をお祈りします。
by kurashiki-keiko | 2014-12-12 00:01 | しみじみしたこと | Comments(2)
極月や喪中はがきに慟哭す
私も7月に恩師に先立たれました。米寿でした。
鷲羽山は大好きなお相撲さんの一人です。
大きな冷蔵庫の買い替え大変でしたね。
ありがとうございます。
コメントありがとうございました。