私の家族新聞への思い その2
2015年 03月 29日
そもそもの「家族新聞」というものとの出会いは、私の小学校4年生頃の学校の宿題だったと思います。わら半紙に鉛筆で記事を書くうちに、家族のなんでもない日常の中に、とどめておきたい事柄が転がっていることに気が付きました。しかし、母はそんな私の意欲を「まあ、やっちもない(岡山弁で、しょうもない、つまらないという意味かな?)」と摘んでしまい、2号くらいは作ったと思うのですが、あえなく中止。
また、中学の頃にやはり歴史の時間の宿題に「奈良時代新聞」というのを作るというのがあり、これも面白くて、トップ記事に大仏建立のこと、奈良時代のファッションのこと等色々と挿絵つきで編集しました。
その後時代は流れ、結婚すると、義父がそんなことが好きらしく、私に夫の兄妹の分も含めてみんなの新聞を作っては、と言っていたのですが、子供が3人次々に生まれるとそれどころではなく、長い時間がさらに経ち、義兄の一家が楽しげに家族が記事を分担して書いた家族新聞を一時期作っていたのをうらやましく思っていましたが、我が家の状況はとても無理でした。義父の介護も終末期に入ったころ、たまたま受講した「家族新聞講座」というので再び目覚め、やっとこの新聞発刊にたどり着いた、というわけです。創刊号のトップ記事は長女の就職、で、マス目を鉛筆で埋めて紙面を作りました。受講生の中で実際に家族新聞を作ったのは私一人だったので、講師の先生が喜んでくださって大阪で買い求めた新聞用のマス目のコピー用紙を3冊くらいくださいました。
下は、創刊から2012年までの一部です。
最初の頃は手書きでしたが、パソコンに出会ってからはWordで編集、その技術も最初はつたないものでしたが、少しずつ上達し、写真を取り込んだり囲み記事もシリーズ化したりして楽しんできました。
どんなに忙しくても20日前後をめどに、時には明け方までかかってもとにかく続けてこれたのは、ひとえにこれが楽しい作業だったからだと思います。
思えば小学4年生頃に母に「やっちもない」と言われたことに納得できず、「いつかは必ず」と思ってきたことがその原動力だったのかもしれません。
「願えば、かなう」ということかなあ、と今にして思います。
by kurashiki-keiko | 2015-03-29 02:02 | 家族新聞 | Comments(0)