青天の霹靂
2016年 02月 23日
「お母さんが今日は家の電話にも携帯にも出ないしメールも返信がないので来てみたら、ドアにチェーンがかかっていて、これはと思って救急車を呼んで、やっとチェーンを外して中に入ってもらったら、心肺停止だって、病院に運んでも蘇生する見込みがないんだって」
「えー!!!!」
こういうのをまさしく青天の霹靂と言うのでしょう。そういえば、私の家族新聞、日曜に本局で投函したら月曜には届くはずで、たいていすぐにお礼のメールが来るのに今日は来なかった…
わー。
とる物とりあえず、夫と夜道を車を飛ばしました。
母は賃貸マンションの8階に父を亡くしてから20年以上1人暮らしをしていました。最近では弟が一緒に住まないか、と言ったそうですが、まだ一人でやれる、と断ったと聞いていました。
着くと、マンションの入り口横の部屋で弟夫婦が警察官の事情聴取の最中で、居間に母が倒れていて、というか枕をして横になった体がドアのガラス越しに見えました。どうやらばったりと倒れたのではなくて、自分から横になっていたようです。よく見る刑事ドラマみたいに警察官が3人くらい、足にポリ袋のようなものを履いて現場検証の最中。
弟夫婦によると、母は金曜日に微熱があって病院を受診し、胃に負担になるからと言うので座薬をもらって、日曜日には治まった様子で、弟夫婦とうどんを食べに行っておしゃべりをして、月曜にまた10時半に病院の予約があるからと言っていた、と言うのです。
なので夕方弟嫁が様子を聞こうと電話してもメールしても返事がない、と言うので、仕事帰りの弟と二人で様子を見に着たら、ドアチェーンがかかったままになっていて、中は暗く、大声で呼んでも出て来ないので、救急に連絡、するとレスキュー隊が来て、ドアチェーンを切ろうとしたが切らずに外すことができたそうです。が、そのまま入らずにまずはガス漏れ検知をしてから、弟たちは入れてもらえず、彼らが入ったら心肺停止、蘇生の見込みなし、とのことで病院に搬送されることもなく、あとは警察に連絡された、との事。
警察の検視があるので居間には入れず、しばらく弟夫婦が警察官に昨日の様子などを聞きとられていました。警察としては不審死扱いなので、「悩みがなかったか」つまり自殺の線がないかと言うおたずねまであり、弟が「高齢者の自動車教習を受けるかどうか、とは言っていた」。母に悩み事がありそうには到底思えませんでしたが。
そして、銀色の寝袋のようなものに包まれて、すぐ近くの市民病院に検死に運ばれて行きました。1時間くらいかかるが、その間に帰ってきたら顔に掛ける白い布を用意しておくように、と言われました。白い布、と言ったって普段一緒でないので勝手がわからず、24時間スーパーに行ってハンカチを買い、ついでに夕食も食べてないらしい弟夫婦にサンドイッチを買って。
台所の流しには朝食の食器が洗い桶に入っていて、どうやら朝食を済ませ、これから病院へ、というところで様子がおかしくなり、枕をして横になって休んでそれっきり、と言う感じだったことがわかりました。
玄関横の部屋のデスクには、金曜日からの病院受診にかかった費用を書いた家計簿のページが広げてあり、座薬をいつ入れたか書き込んでありました。お薬手帖は、と警察の人に言われて、それはなかったけれど、処方されたお薬の説明書が家計簿にはさんでありました。
家計簿、最後まできちんとつけていたのです。
私は夫の両親を送った経験があるので、写真があるか聞くと、弟の家にあるそうなので一安心。そうだ、お棺に入れる時に、気に入りの着物がないかしら、と探すと、ほとんどをすでに処分してあったので、数はなかった中に、真新しいような不祝儀着がありました。本当は喪服でない気に入りの着物が着せたかったけれど、それが真新しかったので、襦袢やら帯やらも一通り袋に入れて、弟嫁には着物の事がさっぱりわからないので助かった、と言われました。夫の伯母が老人ホームに入るに当たり、我が家にそういう着物の一揃いと新しい足袋やら夫の遺影やら、女学校の卒業証書やらお花の免状やらを預けて行ったことがあったので、そこまでは行かなくても母も準備していたのかしら、と思いました。
ほどなく警察官4人ほどに抱えられて遺体が帰ってきました。北向きに布団を敷いた上に寝かせてもらい、掛布団をかけてもらったところでちょうど葬祭業者さんの人がやってきてくれました。
ストレッチャーをエレベーターにのせるためには奥側の所を広げる扉を開ける鍵が必要なのだそうですが、夜になって管理人さんは帰宅しているし、連絡方法がわからない、となって、やはり不織布のような布製の運搬用のものに包んでみんなで持ち上げて下まで下しました。弟夫婦の暮らす田舎の家近くの葬儀場へと運ばれて行きました。
弟夫婦はそれを追って行き、私たちは帰宅。
あまりの非日常の世界でまだ興奮冷めやらず、というか実母が亡くなったのにびっくりの方が先に立って、泣くことも忘れています。本当に先日まで元気だったものですから。死因は急性心筋梗塞とのこと。帰宅の車中で、そうだ、葬儀には本人が使っていたお茶碗にご飯を盛ってお箸を立てるのだった、そしてこの世に返って来ないようにと葬列が出たらお茶碗を割る、と言うのがあった、と思いだし、私が持って行くことになりました。
弟との話によると、母は「エンディングノート」をすでに弟に託していて、葬儀で流す曲も書いてあったとのこと。クラシック好きな母の事だから、それはぜひかなえてあげよう、と話しています。母の終活、ずっと前から頑張って見事に終末を迎えました。
知らせる範囲が、母の交遊関係がわからない…と言っていたら、そうだ、年賀状が来たばっかり、と言うのに気づき、そのファイルを私がもって帰ってリストアップすることになりました。母は父を送ってから活発に色々と交遊関係があったものですから、いったいいつのどういうお付き合いなのかが私には見当がつかないのが困ります。こういうのも終活の中に入れておくことが必要かもしれません。
by kurashiki-keiko | 2016-02-23 06:45 | 老いということ | Comments(2)
お母様のご冥福を心からお祈り申し上げます。