竹富島
2009年 04月 09日
2009年4月1日、小浜港を8:30高速艇で出発、8:55ごろ石垣港へ到着。石垣港には大勢の観光客があふれており、それまでののどかな離島風景とは一変した感じ。
9:30に石垣港から竹富港に向けて出港。それまでのお客とは違い、初めての人が多いらしく、船底に波を受けてドンと突き上げられ、下りるたびにキャーキャーとにぎやかな事。遊園地のジェットコースター並みにはしゃいでいた感じ。10分ほどで竹富港に到着。
ここは昔からの民家を保存している島なので、赤い瓦にシーサーが乗り、珊瑚の塀が続きます。丸っこい珊瑚は、そのあたりにあるものをそのまま拾ってきて積み上げたもの。キッチリしてないようですが、この隙間を風が適度に通り抜けるのが崩れない秘密でもあるようです。
塀にまといついているのは、島胡椒。
珊瑚の塀は角々が丸っこく出来ているので、水牛車は上手に曲がって行きます。八重ちゃんがんばっています。
ガイドのお兄さんが、三線を取り出して・・・
安里屋ユンタを歌ってくれました。安里屋ユンタは、ここ竹富島で生まれた歌だそうです。
のどかな島に水牛車ののんびりした速度がぴったりでした。
次は自転車。貸し自転車に乗って。こちらは郵便局。
しかし、このあたりの道路は舗装してない道が大部分、珊瑚の砂地なのでザーッと乗り上げると転びそうで怖い。
以前島巡りで来たことがあるので、家のあるあたりだけの散策なら徒歩のほうがずっとよかったです。
島内にただ1箇所の高いところ。定員1人!の展望台。上り下りする階段がまた急で足が半分しかかからなくて非常に怖い。でもやっぱりね、野次馬ですので行列に加わって登って見ました。
こんな感じ、倉敷美観地区みたいに伝統的建物群です。
たまたま見かけた建築現場。島の建物の建て方が分かり興味深かったです。
そして、ミンサー織りとか芭蕉布を織ったり展示したりしているこちらへ。
そして、お寺の博物館へ行って「倉敷から来た」と言ったら喜ばれますから、ぜひ行ってみて、と言われました。
沖縄が占領下にあった時代の英語の書かれた円のお札とか、その後のドル紙幣、本土復帰後の日本の紙幣まで、歴史の一端を見せてもらいました。
管理をしておられた男性に「倉敷から来ました」というと、このポスターを示されました。
民芸運動の一環。東京の日本民藝館、倉敷民芸館などと連携してここの民芸運動があるのでしょうか。
みやげ物になっているミンサー織りの原点がここにありました。もともとは、婚約を承諾しました、と言う印に織ったものらしいです。愛する男性に心をこめて織り上げた布だからしっかりした織り地で模様にも意味がこめられているのでしょう。
・・・そして、竹富島に別れを告げ、
タクシーで石垣空港へ。
すると、石垣島から離任する、または着任する?先生の送迎に生徒が大勢デッキにいました。
思い出したのは、最初に石垣空港へ来たときに、鼓笛隊が出迎えていたので何事かと思えば、学校の先生が島を離れて沖縄本島へ転勤になるとかで、生徒が送りに出ていたとのこと。情に厚い島なんだなと思いました。
14:40、石垣空港を離陸、15:30那覇空港着。
「空弁」を家族分買って16:30離陸、そして18:20、岡山空港到着。
楽しい旅でした。
お・し・ま・い。
・・・この記事はメールマガジン「Weekly KURASHIKI 週刊くらしきタウン情報」に連載中の「keikoのお出かけ日記(320)(321)と関連しています。
by kurashiki-keiko | 2009-04-09 06:16 | 旅 | Comments(4)
あの高台の向かいの雑貨屋のおばさんに会いましたか?楽しい人でした。
雑貨屋のおばさんらしい人にお寺の道を尋ねた、かも知れませんが、急いでいたのでそれだけでした。飛行機の時間が・・・と思っていたのですが、もう一便船を遅らせてもよかったのに、あせって残念な事をしました。
台風の元の熱帯低気圧が発生した時点で、魚をまとめて取ってきて、台風の時にはひたすら家の中で耐える生活なんだとか。
本土ではなかなか想像できない暮らしを垣間見ました。