カテゴリ:旅( 198 )

秘湯につかりかずら橋を渡って

5月8日(金)夜の事、いつも週末は一緒に晩ごはんを食べている長男一家が、お嫁さんの実家の法事のためにお泊りで出ていくことになったので、こちらも急に思い立ってどこかへ行きたくなり、ネットで探して四国の祖谷渓のホテルに空きがあったのでネット予約して土曜日朝から出かけました。お天気は小雨。
d0031853_22281142.jpg


d0031853_21191024.jpg
大歩危はちょうどたくさんのこいのぼりが泳いでいました。

d0031853_2120321.jpg
道はだんだん上へ上へと登り、おりしも雨模様だったのでまるで雲の上にいるみたい。

d0031853_21205411.jpg
お宿の祖谷渓温泉ホテル秘境の湯に着きました。道の駅西祖谷の脇に立派な屋根のついた門があり、それをくぐって行ったところにありました。

d0031853_22212997.jpg
お風呂はこのあたりの人が入浴料1,000円を払って外部から入りに来る温泉で、5時過ぎ頃に入りに行ったらすいていて女湯は4人ほど、露天風呂は1人だけで、そばの石を枕にして浸かっていると青葉がきれいに見えて本当に気持ちよかったです。いつもなら夕食作りにバタバタしている時間なので極楽極楽、と言ったところでした。

d0031853_21235862.jpg

d0031853_21242681.jpgd0031853_21245361.jpgd0031853_21251840.jpg夕食です。食前酒は地元産のヤマモモを独自に作ったというヤマモモワイン。季節柄、筍の木の芽和え、アマゴの刺身、阿波尾鶏のカルパッチョ、アユの塩焼き、蓮根団子、蕎麦など地元産の食材。揚げ物がありきたりの天ぷらなどでなくて蓮根饅頭だったのがうれしい。ご飯は一人ずつのお釜で炊いた地元産のお米で大変おいしかったです。ついたての向こうの隣のテーブルには、お1人の70歳前後とみられる女性がいて、「こちらは日の暮れが遅いですね」との事。どちらから?と聞くと千葉から10時間かけて来たとの事。紅葉がよかったので2度目だそうでした。
 

d0031853_2129897.jpg
ホテルから5㎞ほど行ったところに、有名な祖谷のかずら橋がありました。前夜パンフレットで、3年に一度掛け替えがあり、今年それがあったとのこと。

d0031853_2131154.jpg
岸の太い杉の木を蔓で結んでいるとのこと。渡るのは一方通行になっていて、500円。後から来た人が「怖い思いをするのに500円払って渡るとは」と言っていました。床に当たる木組みが15~20cm位隙間があるので下がよく見えて、手すりの部分のかずらを頼りながら1歩ずつそろそろと、冷や汗かきながらわたりました。
昔平家の落人たちが、追手が来たらただちに切り落とせるようにと、このあたりに自生していたシラクチカズラ(サルナシ)で作ったのが始まりとか。大水でも流されない吊り橋はこのあたりの人にとってかつてはなくてはなっらない交通手段で、最盛期には13か所ほどあったそうですが、柱となる太い立木が必要なため架橋位置を変えながら時代とともに徐々に数を減らしてきたそうです。

d0031853_213338.jpg
d0031853_21323564.jpg
琵琶の滝。平家の落人ゆかりの滝との事。

d0031853_21341641.jpg
この地の名物「でこまわし」。里芋、こんにゃく、じゃが芋、豆腐などを串に刺して甘味岨をつけて焼いた物。この店では里芋?と思って食べましたがどうも違う。聞けば里芋は秋に取れるので、今はそば団子なのだとのこと。味噌だれがおいしかった。

d0031853_2136227.jpg
かづら橋のそばの夢舞台という名前の土産物屋さん。大きな太い柱を打ち込んで渓谷に床を作っての大きな建物でした。

d0031853_2138062.jpg
d0031853_21385388.jpg
d0031853_21395433.jpg
平家ゆかりの屋敷には、いつでも火を燃やしてきた囲炉裏やら台所、イモ類を貯蔵していた穴倉などもありました。そして何より驚いたのは、ガラスの向こうで撮影は難しかったのですが、平家の赤旗があったことでした。800年もの歳月、それはそのままの物だったのか、作り替えられたものなのかはよくわかりませんが、平家の誇りを持ち続けていたという事なのでしょうか。

d0031853_21471999.jpg
d0031853_21474581.jpg
d0031853_21481061.jpg
「ツールドにし阿波」というのがあったようで、疾走する自転車は見ていて気持ちよさそうでした⇒http://tour-de-nishiawa.com/shiryou/map2015a.pdf
[PR]

by kurashiki-keiko | 2015-05-10 21:50 | | Comments(4)

長崎・上五島の旅を終えて

 今回長い間の念願だった上五島へやっと渡ることができました。夢は枯野を駆け巡るではないですが、まだ私の心は旅の風景を思っています。
 一番印象的だったのは、外海(そとめ)の、温石(おんじゃく)-緑紋片岩-というその地方に多く産出する平たい石を置いただけのキリシタンの墓標のことです。浦上ではその痕跡すら残さずに捨てられたという墓標やら遺骨も、外海ではびっそりと山の中に墓標を作ることができ、それでも名前を刻むことはできず、白い小石を拝むときにだけ十字架の形に置いて拝み、去る時にはその形を崩しておいた、という工夫、神父様の墓の上に神社を立ててカムフラージュしたということ。
 また、踏み絵を踏んできたら、許しを請う祈りの文句を唱えていたということ。
 上五島の教会群は、信仰を表だってすることができるようになった信徒たちの爆発するような喜びの表現だったように思えること。

 私はたまたま進学した大学の環境のおかげで二十歳で洗礼を受けましたが、結婚に際しては仏教の家庭に入りましたので、その矛盾に長い間ひそかに苦しんできました。幸い結婚式は姑の理解があったので、カトリック教会で挙げることができました。しかしその後のお盆の行事、さらに舅、姑が亡くなり葬儀やら法事を取り仕切ることになり、仏事には必ずお経を唱和しなくてはなりませんでした。自分がクリスチャンだからと言ってそれらを避けて通ることはできず、それでも敬愛していた舅・姑をしっかり送ってあげたいという思いからちゃんと家族とともに経文を唱え、法事をしてきました。
 教会にもこの頃ではクリスマスくらいしか行くことがありません。自称隠れキリシタンなどと言っていますが彼らにとても失礼だと思います。私にとっての信仰とは、と絶えず突きつけられる思いでずっとこの隠れキリシタンとかキリスト教伝播の地を訪ねての旅を五島の福江島、平戸、長崎、天草、島原、鹿児島、種子島、そして今回の長崎、上五島と十年あまりにわたってしてきたのでしたが、もちろん命がけで信仰を貫いたような彼らの信仰には及びもつかないものの、彼らの守り抜いてきた信仰の土台があって、明治になって信仰を許された時代に続々と表に出てきて大勢のキリシタンが表に出てきたこと、さらに今の各地の教会やら教団の普及となってきたのではと思うことなどがありました。世界のどこにもこれほどまでの迫害に耐え抜いて何百年も隠れて信仰を守り続けてきたところはないと思います。

 この旅のきっかけになったのは、NHKラジオで毎週日曜朝に放送されるクラシックの音楽番組「音楽の泉」での皆川達夫先生のお話でした。生月島(平戸の隣)のかくれキリシタンたちの「歌オラショ」を採譜して、それの元になった聖歌を探して旅して、なかなか見つからなかったけれども、やっとスペインの図書室の資料に、400年ほど前のグレゴリオ聖歌にほぼ同じものがあったのを発見したとのお話でした。それはその地方出身の神父が日本に伝えたものらしいとのこと。彼ら隠れキリシタンは、400年の長きにわたってそれを口伝えだけで伝えて来ていたこと。見つかれば殺されるという時代においても、村の納戸の奥にお祭りして祈りを唱えたり、また神父様から伝えられたキリスト教の暦(復活祭はその年によって移動することなど)をきちんと伝えていたことなど。
 華やかな天主堂の建物は写真に残りますが、それよりもこういった無形の遺産に強く心惹かれる者がありました。私などはそんな迫害があったらおそれてさっさと踏み絵を踏んでしまうことでしょう。私にとっての踏み絵は、家の葬儀や法事だったと思います。しかしそれでも神様に許しを請う祈りをささげること、こんなつまらない私もどうぞお許しくださいと祈ることで、なんとかつながっていけそう、と思えます。
 偉大な先駆者たちの後を表面上だけでもたどりたいという願いは、そういうことだったのかもしれません。

 敬愛するシスター渡辺和子先生のご講演の中に、洗礼を受けた時の話がありました。目の前でお父様を暗殺され、残されたお母様に「一番になりなさい」と厳しく育てられそれにこたえようと必死だったせいか「和子さんは鬼みたい」と言われ、そんな性格を変えたい、戦時下、このままで死にたくないと思って相談した母校双葉のシスターに、それならば洗礼を受けなさいと勧められ、当時住んでいた荻窪から四谷の母校まで(私は東京の地理に詳しくないのでよくわかりませんが)空襲を避けて防空壕に入りながら丸一日かけて歩いて出向き、母校のチャペルが焼け落ちる前の最後の受洗者になったそうです。そして、敵国の宗教に入るなんて、とお母様からはずっと口をきいてもらえなかったそうです。
 隠れキリシタンではありませんが、反対を押し切ってそれでも入信したというシスターの経験、私はそれほどの反対にも遭わず(当時親と離れて学寮でいたためもあり)あっさりと洗礼を受けてしまったために、強い思いも試練もなく来てしまったような気がします。
 キリシタンたちは、捕らわれることを避けるために踏み絵を踏み、帰宅してからひそかにその許しを請うお祈りの文句を唱えたと聞きました。意志の弱い私はそれを聞いてほっとしたところがありました。棄教しないで死を選ぶか、あくまでもどうにかして生きることを選び取り心に教えを守るか?
 ともかく、先の皆川先生のお話やらシスター渡辺の話やらにより、少しばかりの意識が高まったように思えます。相変わらず、教会に通ったり熱心に聖書を読むこともないぬるーい信者ではありますけれど、小さな犠牲的精神をもつ善意の人でありたいと願っています。
 
 調べていくうちに、皆川先生の家系は、かつてキリシタンを迫害した側にいたらしいこと、そのために余計に先生は歌おらしょのことを調べる使命感を持たれたらしいことがわかり、神様の仕掛けられたことの大きさを知ったように思います。


参考:皆川達夫先生の「オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし」のサイトはこちら⇒http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/orasho.html
上記サイトよりコピーさせていただきました↓
イギリス、フランス、ポルトガル、イタリア、とくにローマのヴァティカン図書館などと探しまわって、やっと七年目の一九八二年(昭和五十七年)十月に、スペインのマドリッドの図書館のカードにそれらしい聖歌集を見つけだすことが出来た。司書に請求した書が手元におかれたその時、体がふるえてきた。これに相違ないと直感したのである。ふるえる手で一ページ、一べージ開いてゆく。――「あった、あった。これだ、これだ」。
 まぎれもなく生月島の歌オラショ『ぐるりよざ』の原曲となった聖歌『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』、夢にまで見たそのマリア賛歌の楽譜が記されていたのである。
それは、現在なお世界中に流布している標準的な聖歌ではなく、十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていた特殊なローカル聖歌であった。それが、四〇〇年前にこの地域出身の宣教師によって日本の離れ小島にもたらされ、はげしい弾圧の嵐のもとで隠れキリシタンによって命をかけて歌いつがれて、今日にいたったのである。この厳粛な事実を知った瞬間、わたくしは言いしれぬ感動にとらえられ、思わずスペインの図書館の一室で立ちすくんでしまったのであった。

(みながわたつお・立教大学名誉教授、西洋音楽史専攻) 」

[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-12 03:59 | | Comments(0)

上五島の教会めぐり 午後 その2 と、帰途


d0031853_3164933.jpg
桐教会。建物はそれほど古い感じではありません。昭和33年に改築されたものだそうです。高いところにあって、撮影するのにちょっと離れたところ、と思っても地面がない・・・。

d0031853_3203352.jpg
若松大橋を渡った若松島から見た桐教会遠望。海の向こうの山の上に建つ白い教会はなかなか絵になる風景です。

d0031853_3235383.jpg
d0031853_3241388.jpg
土井ノ浦教会。木造の旧大曽教会を譲り受けて移築したものが元になって、その後改築されたものだそうです。この教会の信徒は慶長年間には180戸いたそうですが島原の乱の時に出て行ってだれも帰ってこなかったそうで、その後大村から移り住んだ人の子孫が現在いるそうです。

d0031853_3284822.jpg
土井ノ浦教会のルルド

d0031853_329258.jpg
上五島と若松島を結ぶ若松島大橋。このあたりの海は穏やかなせいか、養殖が盛んで、ハマチ養殖に関しては日本の先駆けだったそうです。しかし海岸の小さな入り江を網で仕切って初めのころはしていたら、潮の干満によりその面積が増減するため魚にとってはよくないということで、沖のほうでぐるりと網を張っての養殖にと移っていったそうです。今はマグロの養殖もしているのだそうですが、何しろ輸送のコストがかかるのでだんだん衰退しているようです。
 この橋なかった頃に学校に通っていた、案内のタクシーの運転手さんは、船で通っていて、学校も海辺にあったのでちょっと授業が進むとすぐに海に行っていたとか。

d0031853_3395742.jpg
土井ノ浦教会遠望

d0031853_3405115.jpg
泊まったのは若松島の港の近くにある清水荘という民宿でした。夜、散歩に出ると、信号に出合いました。子供たちの教育のために作られて信号だそうです。が、そばの小学校はすでに廃校になり、子供たちは遠くの学校へ通っているそうです。
 運転手さんによると、ものすごく遠い山の中に40軒ほどの集落があり、そこにたった一人の小学生の女の子がいて、地元行政の補助によって乗合タクシー通学しているそうです。

民宿での一夜が明け、9時55分出航の船に乗るために9時10分にタクシーに迎えに来てもらい、思いのほか遠い道を奈良尾の港まで行ってもらい、帰りの船に乗りました。
d0031853_3524480.jpg
行きは朝鮮半島へ抜けた台風12号の余波でずいぶん揺れたのでしたが、帰りは幸い穏やかで、夫はぐうぐう眠っていました。


長崎駅に着き、軽く昼食を食べていざ、改札口へ行くと、様子が変。なんと集中豪雨のため列魔が遅れており、前の2本がまだ駅にとどまっていたのでした。その次のかもめ22号が私たちの乗る予定の列車ですがそれだと乗り継ぎのさくら558号に乗り換えできないかも!
切符を持って駅員さんに相談すると、「ホームに止まっているのにすぐ乗って下さい!」
あわててホームを走り、ターミナル駅で横断陸橋もなく平面だったのでなんとか最後尾のドアから乗り込むことが出来ました。せっかくの指定席がふいになり、いくつも車両を歩いてやっと空席を見つけられてほっとしました。
 かもめの運転士さんは次のさくらの接続に間に合うように気を遣ったのか、途中の直線部分ではずいぶんスピードが上がっているように感じました。カーブ区間はなかったのでよかったのですが。幸い新鳥栖での乗り継ぎでは、予定にない列車に乗ったためか機械の改札を通さず、駅員さんに切符を見せて通過、無事乗り継ぎの予定通りのさくらに乗ることができました。
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-05 12:29 | | Comments(0)

上五島の教会めぐりー午後

2014年8月4日(月)、観光タクシーによる教会めぐり、午後です。

d0031853_12311100.jpg
青砂が浦天主堂。午前に回った頭ヶ島教会と並び島内で2か所、国指定の重文だそうです。

d0031853_1245139.jpg
こうもり天井というのか、木を蒸して柔らかくしてから曲げていくという技法で作られた天井は高く荘厳な感じ。
d0031853_2531226.jpg
島内の教会堂には必ずこのような説明板があり、また内部にはスタンプラリーのスタンプが英文と日本語の物と、統一デザインでどこにも置いてありました。途中から気づいて手帳にスタンプを押してきました。

d0031853_1264921.jpg
矢堅目(やがため)。夕景がきれい、と聞いてきたのでしたが、あいにくのお天気、雨が降っていなかっただけまし、と思います。

d0031853_495717.jpg
大曽教会。レンガ造りの建物の前には、両手を広げた、あのリオデジャネイロの山の上に建つようなキリスト像がありました。この内部見学をしようとするとたまたま先客がいて、中の柱は杉と松を組み合わせて作っていること、その柱の下の基礎の石は普通床下に隠れているものだけれども、神父様のお国では見せるようになっているようで、基礎部分の石が床に30㎝くらい出ていること、窓枠のところを示して、日本なら雨じまいは窓枠の外でするのが普通だけれども、外国風は窓の中に水が入ってくるのを当たり前として、それを受ける溝と、その水が流れ出すように外に向かって傾斜をつけた小さな穴をあけているところを見せてくださいました。とても内部の意匠がきれいなので、外からお客様がいらっしゃるとよくここを案内するのだとか。その方になんとなく遠慮で写真撮影ができず残念でした。


d0031853_253404.jpg
中ノ浦教会。これまで回った教会はたいてい高いところに建てられていたのに、この中ノ浦教会だけは海辺に建っていました。雑誌「日経ビジネス特別版 2013WINTER 二人の時間」に紹介されていたのには水面に教会が映っていてきれいな写真でした。

d0031853_31265.jpg
中ノ浦教会内部

d0031853_315150.jpg
中ノ浦教会のルルド

d0031853_334262.jpg
林道から見下ろした中ノ浦教会。

d0031853_363650.jpg
レンガ造りの福見教会

d0031853_371520.jpg
奈良尾のアコウの大木。根っこの下を人が楽に通れる。沖縄ではよく見かけた気がするアコウの木ですが、五島でこれほどの大木、それも人が通れるほどの気根が発達していて大木になっているというのは本当に珍しいと思います。
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-05 10:16 | | Comments(0)

長崎港から新上五島町 鯛ノ浦港へ


d0031853_019312.jpg
朝7時、船会社に電話して運行されるとのこと、乗船20分前には港に到着。高速船でも1時間40分かかる船の道。料金は季節によって違い、この日は1人6,210円。

d0031853_0223159.jpg
結構大型のこんな船でした。日本最南端の波照間島に行ったときはもっともっと小さな船で2.5mの波に揺られて行った経験があるので、大船に乗った気持ち。
 
d0031853_0241162.jpg
予想通り、大波で船はしっかり揺れました。船酔いでトイレには吐いた跡がいっぱいあったと夫。私は、こんな時には寝るに限る、と寝ようとするのですが、冷房が効きすぎて寒く、カバンからタオルを取り出して首に巻いてなんとか眠りました。

d0031853_0273259.jpg
やっと鯛ノ浦港へ到着。波が高かったためか予定より10分くらい遅れての到着。予約しておいたタクシーが待っていてくれました。昭和38年生まれという元気な運転手さん。教会めぐりと観光名所のいくつかを示し、宿の民宿には夕方5時ごろ到着でよいというと、料金が23,000円くらいかかるとのこと。レンタカーで行くには様子がよくわからないし疲れを考えるとこの際出費は覚悟。




iPhoneから送信
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-04 07:42 | | Comments(0)

外海(そとめ)―祈りの岩、枯松神社、キリシタン墓地


d0031853_23531661.jpg
枯松神社へ行く途中の山道に「祈りの岩」はありました。

d0031853_2354391.jpg
禁制のお祈りの言葉は、この人里離れた山の中の岩陰で親から子へと口伝えに伝えられたのだそうです。

d0031853_23555456.jpg
このあたりの山の中には、いたるところこのようなこの地方に産出する平たい石(緑紋片岩)「温石(おんじゃく)」を置いたものがあり、キリシタンの墓碑だそうです。浦上のほうでは徹底的に排除され、墓石もお骨もみんな海に投げ込まれて痕跡すらないそうですが、ここ外海地方では、役人の目が浦上ほどに届かなかったため、ひっそりとそれでも墓石を置くことができているそうです。

d0031853_23585388.jpg
こちら枯松神社。実は敬愛する神父様のお墓をカムフラージュするために建てられたものだそうです。お寺なら住職がいるけれど神社ならいらないし、しょっちゅうお参りしていても怪しまれないためだそうです。そして

d0031853_005533.jpg
お宮のそばにもキリシタンのお墓。上に置いてある白い石、それは拝むときには十字架の形に置いて拝み、終わるとその形を崩してから去るのだそうです。

d0031853_012154.jpg
こちらは後になって建てられたお墓。よく見ると中央から右には仏教の戒名が、向かって左側にはキリシタンの洗礼名が刻まれていました。
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-03 14:38 | | Comments(0)

大野教会、出津(しず)教会、旧出津救助院、ド・ロ神父記念館


d0031853_23215161.jpg
西彼杵(にしそのぎ)半島の海岸沿いに出ました。大村のほうは平地が多く農地もあり豊かなのに比べて、こちらは断崖絶壁が多く、農地はほとんどありません。それだけ貧しく、キリシタンたちが追われてこちらに逃げ込んできたのでしょう。

d0031853_23243573.jpg
急なまがりくねった道を山側に。運転手さん泣かせの細い道をバスで登って、さらに徒歩で少し登りました。大野教会です。

d0031853_511028.jpg
d0031853_23251766.jpg
こちら「ドロ壁」。ド・ロ神父様がこのように地元産の材料を使って風雨に強い壁を考えて指導されたそうです。海からの風が強いので高い塔は作らず平屋。

d0031853_2328258.jpg
マルコ・マリ・ド・ロ神父の小路は、人が2人やっと並べるくらいの小路で、緩やかに上り下りしながら教会堂や救助院などを結んでいました。

d0031853_23301437.jpg
こちらは保存修理された救助院、ド・ロ神父記念館。内部は撮影していません。素麺を作る作業場があったり、織物をする場所、炊事場があったり、麹をつくる室があったり、鰯網を作る作業場があったり。フランス貴族に生まれた神父様は、没落していく貴族の生き延びる道として、親から様々な技術を取得するように教育されたため、ありとあらゆる生活・産業の知識をキリシタンたちに教えてくださったり、畑を開いて様々な作物を育てたりしたそうです。

d0031853_23364777.jpg
こちら出津(しづ)教会。

d0031853_23373595.jpg
遠いフランスから日本の貧しい信者のために一生を捧げて尽くしてくださった神父様に感謝。


(時間がある時にこの旅行記は加筆するつもりです)
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-03 09:55 | | Comments(0)

長崎キリシタン祈りの巡礼号 バスツァーに


d0031853_2233132.jpg
台風の余波で船が欠航になりそうだ、とあわてて旅程を変更する算段をしていた時、JTBの窓口のパンフレットでふと目についたこのページ。日曜日だけ組むバスツアーで、朝9時から夕方5時まで、キリシタン関連の史跡を回ってガイドがつき、昼食付きで2,000円、ちょうど日もいいし、いいんじゃないの、と飛びついた次第。

長崎駅前の集合場所に行き、運転手さんに間違ってないか確かめてから乗り込むと、同行者は私たち夫婦のほかには、東京からのご夫婦と、大阪からの親子3人の計7人。

d0031853_22371085.jpg
小型のバスでも7人なのでゆったり。
d0031853_2237447.jpg
ガイドのFさんはとても詳しくて、長崎のキリスト教の歴史について細かく説明がありました。

d0031853_22393715.jpg
d0031853_2240462.jpg
鈴田牢の跡地。8坪ほどの牢に1622年、35人が押し込められ、牢内で2人が亡くなり33人が長崎の西坂と大村の放虎原(ほうこばる)で殉教したとのこと。

d0031853_22524659.jpg
放虎原殉教地(日本二〇五福者殉教者顕彰碑)205名の殉教者の内訳は、日本人153名、スペイン人24名、ポルトガル人5名、イタリア人5名、メキシコ人3名、オランダ人1名、ベルギー人1名、朝鮮半島出身者13名とのこと。

d0031853_22562733.jpg


d0031853_22565923.jpg
こちらは処刑されたキリシタンが生き返ってはいけないというので、胴体だけを埋葬されたという「胴塚」。竹藪になっていますが誰もタケノコを掘る人はいないそうです。若者の像が祀られています。

d0031853_22595221.jpg
500mほど離れたところにある「首塚」。こちらは年配者の像が祀られています。後ろには榎の巨木があります。大村には多数のキリシタンがいたそうですが、禁教令とともに多数が捕らえられ処刑されたそうです。また、その墓も徹底的に跡も残さないほどに捨てられ、何も残ってはないそうです。

d0031853_2311617.jpg
d0031853_2313643.jpg
ここは、京都あたりで捕えられて徒歩でこの地まで連れてこられた26人のキリシタンたちが大村湾を横切って船で運ばれた、乗船の地です。信者が多いこの地方のこと、助けられて逃亡の恐れもあるということで、船に乗せられたのだそうです。一晩を船で過ごし、明け方対岸について処刑地まで歩かされ、すぐに処刑されたのだそうです。

d0031853_236465.jpg
西海橋。西彼杵半島の付け根、大村湾箱の狭い水路で外界とつながっています。大雨でした。

d0031853_237746.jpg
お昼ご飯。2,000円で1日ガイド付きでバス旅行してお昼ごはんまで、とは本当にびっくりなお値段です。(午後の分は続きに)
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-03 08:57 | | Comments(0)

遠藤周作文学館と道の駅夕陽が丘そとめ


d0031853_21582279.jpg
長崎市内の観光は以前来た時に定期観光バスに乗って一通りしているので、今回のテーマは「キリシタン巡礼の旅」ということで、「沈黙」の舞台に建っているという遠藤周作文学館へと足を伸ばしました。レンタカーで約40分。おりしも台風の影響で土砂降りの雨。長崎市中心部から北へ、左に海岸線を見ながら約40分。
建物に入るところで、傘も役に立たないくらいの土砂降りだったため、建物外観の写真も撮るどころでなく駆け込みました。すっかりくたびれて入って右手の喫茶コーナーでまずは一服。

d0031853_2231243.jpg

 学生時代に出会いがあって私もカトリックの洗礼を受けたものの、いいかげんな信者で、長崎に見られるような殉教者たちやかくれキリシタンたちが信仰を守り抜いたそのもとはどこにあるのか探りたいような思いがありました。ちなみに私が読んだ作品は『沈黙』『海と毒薬』『女の一生』くらいしかありません。夫はもう少したくさん読んでいるようです。

d0031853_2214148.jpg
こちら文学館とほど近い道の駅。

d0031853_22151365.jpg
専用の冷凍庫に、いのししの肉と鯨の肉も売っていました。
そして

d0031853_22155799.jpg
購入した本。上のほうの『長崎県謎解き散歩』は昼食後の地元の書店で見つけたもので、『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』は遠藤周作文学館で、道の駅で買ったのは『旅する長崎学4 キリシタン文化Ⅳ』。この旅する長崎学の本はこのたびの旅の目的と内容にとても合致していて参考になり、ホテルで読みました。
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-03 07:09 | | Comments(0)

特急さくらー特急かもめ 鉄道の楽しみ


d0031853_21242549.jpg
岡山からはのぞみではなくて岡山発8時07分の特急さくら545号に乗車。「ジパングクラブ」で3割引きになるためには、のぞみには乗れないのだそうです。かものはしみたいな先頭車両を見るとわくわくします。

d0031853_21415125.jpg
内部はこんな感じ。そして博多駅では通路を隔てて隣の席に小学生のお兄ちゃんと妹が乗り込み、両親がホームで見送っていました。ほほえましくて「どこまで?」と聞いてみると
「せんだい!」
一瞬「?」となりましたが、そうでした、鹿児島県の「薩摩川内」のおじいちゃんおばあちゃんのところへ行くそうでした。
私たちは次の「新鳥栖」で乗り換えます。

d0031853_21303588.jpg
新鳥栖10:20、こちら「かもめ13号」長崎行。
d0031853_21334746.jpg
内部は皮貼りシートで背もたれのカーブも体に合ってとてもいい具合でした。

d0031853_213571.jpg
11:49、終点、長崎駅。たいていは線路はどこまでも続く、という印象なので、以前稚内駅でこのような光景を見て感傷に浸った思いがありましたが、長崎もまた、終着駅なのです。が、こちらは稚内に比べるとにぎやかなので感傷的にはなりません。
 いよいよこれから。

 この時間に長崎に着いたのは、最初の計画では高速船で上五島の鯛ノ浦に渡るはずで、それから逆算しての時間設定だったのですが、何しろ台風12号の影響で波が高く、欠航になると判断したので、この日はレンタカーで長崎市の中心部から40分くらいと聞いている遠藤周作文学館へ行くことにしました。
[PR]

by kurashiki-keiko | 2014-08-02 08:41 | | Comments(0)