ラジオ深夜便の時間にはよいお話がいろいろあるのですが、4時台に起きていることはさすがにまれです。
昨夜は、合唱の練習から帰宅し10時からの教育テレビのパソコン教室を興味深くメモしつつ見ているうちに寝入ってしまい、気が付くと1時。…ラジオで4時台にノートルダム清心学園理事長渡辺和子先生のお話があるとの予告。

まさか4時台ではねえ…と思いつつ起きてると、話が始まってしまい、よく知られている、2・2・6事件でお父様が青年将校によって射殺されたくだりなどが本人の言葉で生で聞けたものですから、ついつい最後まで聞き、5時に就寝でした。
渡辺和子先生は1936年2月26日から2月29日にかけておきたクーデター未遂事件である二・二六事件において犠牲になった陸軍教育総監 渡辺錠太郎氏の娘さんです。
お母さま44歳、お父様53歳?だったかの子供で、陸軍の旭川師団長だった時に旭川で生まれたそうです。師団長に孫が生まれることはあっても、子供が生まれたことはなかったそうで、お母さまはとても恥ずかしいと言われると、お父様が「なーに、男が生むのなら珍しいけれど、女が生むのだから少しも恥ずかしいことはない」と、なんともユーモラスな機知にとんだ言い方で、生まれることが出来たそうです。上のお姉さんは22歳年が離れており、その子を妊娠しており、孫と子がおなじ年に生まれたそうです。
お父様は小学校4年までしか行っていなかったそうですが、非常な努力家で、学費のいらない陸軍士官学校へ行き、優秀だったのでしょう、陸軍大将にまで上り詰めたのです。
お母さまも学歴のない人だったそうですが、夫の出世に伴い、それに見合う人間になろうとこれまた非常に努力をなさったそうです。
お父様は、外国へ出て世界情勢を知るにつけ、日本が諸外国を相手に戦争をして勝てないことを悟り、軍部が戦争に向かうことに反対していたそうで、そのために旭川師団に転勤させられたそうです。その後は故郷に帰って農業をするつもりだったようですが、情勢が変わったのか、また東京勤務、そして邪魔になった青年将校の凶弾に倒れたのです。
この時殺されていなかったら、戦争に駆り出され、結果として戦後に戦犯として裁判に掛けられただろうから、少しでも戦争を阻止する立場として亡くなったことはよかったのかもしれない、とおっしゃっていました。
年を取ってからの4人目の末っ子だった和子先生は、長く親と一緒にいられないからと非常にかわいがられ、川の字になって寝ていたそうです。その朝も、お母さまが支度のため早く起きてお父様と寝ていると、青年将校たちがトラックで乗り付けて門を怖し入り込んできたとき、お母さまは気丈にも「土足で入るとは何事」と立ちはだかったそうですが、それも一時、お父様は和子先生に「お母さまのところへ行きなさい」と言われたものの、お母さまがどこにいるのかわからず、また寝室に戻ると、お父様は困った顔で、目顔で立てかけてあった座卓の陰に隠れるようにと言われたそうです。
この時点で、和子さんはもう一度お父様に命を助けられた、とおっしゃっています。
その後でふすまが小さく開いて、銃口がのぞき、狙撃されて、何発かは応戦したようですが、もちろん多勢に無勢、亡くなられたそうです。お母さますらもいらっしゃらなかったお父様の死を、家族の中でただ一人目の当たりにされたのです。片足は形がなくなるほどの撃たれようで、その後はお母さまが「あちらへ行ってらっしゃい」と言われ、最後に包帯だらけの姿と対面したそうですが、あとで聞けば40数発の弾が入っていたそうです。
9歳の時にそういう修羅場を体験され、現在83歳、生涯忘れないと言われています。
お父様を亡くされて、旧軍人に恩給もなく、つましい暮らしとなったので、お母さまは、子供に残せるのは学歴だけだと言われて、和子さんにも当時の聖心女子の国文学の専門学校を卒業したところで戦後の教育改革で女子大となり、これからは英語の時代だから、と、新制大学の1期生として英文学部に入りなおすようにと言われて大学を出してくださったそうです。
子供のころから「1番になりなさい」などとても厳しいお母さまだったそうです。
後半は現在の学生に対する教育のことでしたが、以前私がこのブログにも書いた「置かれた場所で咲きなさい。花が咲けないときは、下へ根っこを伸ばしなさい」
という言葉などがあったのですが、眠気があったのか、後半のところはあまりよく覚えていません。
ただ「先生方にご挨拶するときは手袋やマフラーを取りなさい」とか当たり前と思われることも言っている、ということや、相手に対してすべて信頼してしまうのではなくて、98%の信頼をする、残り2%の部分はなんとか・・・・(半分眠かったのかそこのところを覚えていなくて残念です。聞いた時にはいいなあ、と思えたのに)
こちら、講和集が発売になっているそうです。