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たけのこの木の芽和え


d0031853_1672670.jpg今年は、昨年夏が異常に暑かったせいで地下茎の発達が悪く、値段が2.4倍との報道があったので、買えるかなあ?と思っていましたが店先で見つけるとつい、買ってしまいました。ぬかで茹でてさて、息子たちが来た時に若竹煮にでもしようと思っていました。
しかし孫が食べるものがない、と急きょ炒り豆腐も作り、煮物だと似た感じなので、潮汁のために買っていた木の芽を融通して、ほうれん草の葉先でミドリを補い、木の芽和えにしました。
だしとみりんとしょう油で少し煮てから、木の芽とほうれん草を擂鉢で摺ったものに白みそ、みりんを入れて和えごろもを作りました。

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献立は鯛のあらの潮汁(筍の姫皮入り)、蒜山の道の駅で買ってきたはりはり漬とお土産でいただいたはんぺん、炒り豆腐、鯛の塩焼きでした。
お嫁さんと分担して作ったので助かりました。

実はこの日の午後、二男が釣りをしたらしく、40㎝のスズキ2尾と、食べごろのメバルを2尾くれていたので、魚の処理の練習に恰好の教材だったのに、お嫁さん達が帰ってから気づき、惜しいことをしました。スズキは1匹は刺身用におろし、アラは塩をして潮汁用に、もう1匹はななめ筒切りにしてメバル2匹と一緒に煮つけにしてしまってから、1個ずつ包んでからアルミ容器に乗せて急速冷凍保存しました。

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by kurashiki-keiko | 2011-04-30 16:16 | 料理 | Comments(2)

新庄村のがいせん桜を見に

岡山県の最北の新庄村の凱旋桜は、日露戦争の戦勝を期に並木ができたというのですからもう100年の歴史があるそうです。今年はお花見が出来なかったという息子達と一緒に出かけました。
もう30数年前は私が子供を抱っこして義父母と1台の車で出かけたことを思い、世代交代したなあという感慨がありました。この日は息子所有の3列シートの車で、孫はチャイルドシート。
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日本の音百選にも選ばれたとかいう、路の脇を流れる水路には鯉が飼われているところもあります。昔は貴重なタンパク源にもなっていたのでしょう。

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ちょうど休日と満開が重なり、晴天にも恵まれて大層な人出でした。
しかし例年みられるような露店が今年はとても少ないように感じました。行ったのが渋滞などで遅い時間だったからでしょうか。

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そうだ、29日は昔は天皇誕生日、今は「昭和の日」いわゆる「旗日」。国旗を掲揚している風景は懐かしく感じました。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-30 05:30 | おでかけ | Comments(0)

おふくろの味―「ごぼうじく」(葉ごぼう)


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春のこの時期、夫は「ごぼうじく」と義母が言っていた葉ごぼうを見かけると必ず買えと言います。ほろ苦い春の味が大好きなのです。
 葉っぱは以前は捨てていましたが、ネットで佃煮風の作り方を見つけたので、今は葉っぱも別に料理しています。
 根っこのごぼうの部分は笹がき、茎の部分はすりこ木などで硬い部分をたたきます。油揚げと濃いめに甘辛く炒め煮にします。

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忙しかったこの日は前日に作り置きしたアジの南蛮漬けと、味噌汁との組み合わせでした。
夫婦2人になると1束のごぼうじくも多すぎるようになりました。

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by kurashiki-keiko | 2011-04-30 05:21 | | Comments(0)

料理教室が開講


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倉敷公民館で4月28日(木)、今年の料理教室が開講しました。第3木曜日に5回シリーズの料理教室。4月は和食、5月は洋食、6月は中華、7月は和食、9月は中華を習います。
私はたまたま今年は空きがあると聞いて参加申し込みしました。エプロン、三角布、手拭き、布巾を用意して緊張して出かけました。
 成人女子1日の栄養所要量、1日の食品の目安量、朝・昼・夕の食品の組み合わせ例、標準計量カップ・スプーンによる重量表、塩分1gになる塩、しょう油、味噌、マギーの分量の説明がありました。
 献立はご飯、長芋とかまぼこと三つ葉の澄まし汁、煮魚、白和え、かぶのレモン漬け、桜餅でした。
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煮魚はアジを1人1匹、えらや内臓の取り方などの実習。そのほかは2人一組になって受け持つ料理を決めて取り掛かりました。私はかぶのレモン漬けと煮魚担当組になりました。
d0031853_54899.jpg桜餅も1人2個ずつあん玉を蒸した道明寺粉で包み、桜の葉で包む実習をしました。私は何度も作ったことがあったので丸め方をお教えできました。

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煮た小豆をミキサーにかけてさらしの袋で漉し、鍋で練ってあんをこしらえるやり方も合わせて教わりました。小豆300gを一度渋切りをして3Cの水を加えて煮て、砂糖300gと塩少々であん1kgが出来るそうです。
この日の献立は1人当たり566kcal、魚・肉80g位、野菜147g、塩分3.4gとのことでした。
煮魚の煮汁の分量、白和えの衣の豆腐を裏ごしにすると滑らかでおいしさが違うことなど、わかっている、知っているつもりでも習うと違うことなどを知りました。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-30 05:13 | 料理 | Comments(0)

家族新聞「あじさい通信」168号ができました


d0031853_8362898.jpgあじさい通信168号は、義妹の連れ合いが亡くなった記事がトップです。長男ももう36歳、立派な大人になり、お香典のお返しの言葉がとても心に残ったのでそれをそのままスキャンして載せました。「家族葬にしたいから」と義妹がいうのでうちの子供3人にも葬儀への参列を遠慮するように伝えたので、これを読ませたいと思います。
 義兄のところの娘も土日だから子供2人連れてもぜひ列席したいと言ってきたのを義兄が子連れで遠方から来るのは無理だと止めたそうです。
 しみじみとしたこじんまりとしたお葬式でした。
( たまたま同じ日に亡くなりファンのための祭壇を設けて盛大にお葬式をしていた田中好子さんの葬儀は、ファンの聞気持ちを大切にして、ファンのための場所や祭壇を作っていました。霊柩車に向かって芯を抜いた青い紙テープが降り注ぎ、スーちゃんを惜しむファンたちの気持ちが降り注ぐようで感動しました。そしてテレビや新聞でも報道された彼女の最後の言葉には感動しました。)
 記事はほかに孫のゆうくんの写真館で撮影した写真が出来たことやら、おばあちゃんの入所のいきさつの話、それに孫娘のmioがたまたまやってきて母親と一緒に焼きそばを作った写真など。
 我が家的には大きな事件のあった月でした。
 明るく元気に前向きにと心がけている家族新聞ですので、訃報を載せるのは心苦しいのですが、大好きだった叔父さんを偲ぶ記事をのせ、掲載の写真は義父の十三回忌で我が家にやってきたときの黒服を着てにこやかにしているものをトリミングして載せました。
 おばあちゃんの施設入所と言うのは、私のこれまでの経験ではなかったことで、困った点も含めて孫やひ孫たちに、「人間年を取るとはこういうことという姿を見せることが年寄りの大切な仕事である」といつか言われた日野原重明先生の言葉を思い出し、彼らに身近に年寄りの姿がなくなることはもしかして損失かもしれないなと思うこともありました。まあ、私たち夫婦がその次の世代の年寄ではあるのですけれど。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-27 08:51 | 家族新聞 | Comments(4)

夜景と生演奏とステーキの素敵な夕食


d0031853_461538.jpg4月24日の夕食は兄夫婦と義母も一緒で、最初は国道2号線沿いのお好み焼き屋、と言っていたらその店はとっくになくなっていたようで、見つからず、こちらになりました。

d0031853_475844.jpgここは生演奏があり、この日は若いシンガーソングライターという人。なかなかいい声でしたし、オリジナル曲ではなく聞きやすいよく知っている曲ばかり最初はギターで、次いでピアノの弾き語りでした。

d0031853_413924.jpg店内に入ったころは薄暮でしたが、次第に夜のとばりに包まれて、2号線を行きかう車のヘッドライトの流れもきれいな夜景になりました。
義母は倉敷市役所の上の赤い灯りを「あの高いところにある灯りは何?」と5分おきくらいに従業員に尋ねていました。となりの義兄と兄嫁が途中からは何度も説明。そういうのは私はこれまでいやと言うほど付き合ってきているから今夜くらいは付き合ってください、と2人にお願いしました。兄嫁が「あれは高い建物に飛行機がぶつからないように目印にしている灯りですよ」と何度も何度も説明。義兄曰く、「あとでお店の朝礼?とかで話題にされるぞ」
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大根のサラダと、人参ドレッシングと玉ねぎ、生ハム。ここの創業者の考えで、大根などの野菜の栽培やお皿を焼くなどは精神障碍者のための仕事にしているそうです。生演奏もこれから世に出る若いアーティストたちに発表の場を提供するという趣旨があるそうです。

d0031853_41750100.jpg大根葉の入ったコンソメスープ。おいしかった。

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メインの100gのステーキ。生焼け状態で運ばれてきて、熱い鉄板のお皿に広げて自分で焼きます。私たち位の年齢層だと80gでもいいくらい。
付け合せの玉ねぎがおいしかったし、お肉はとてもやわらかで、ステーキ自体いつから食べてないかと思いだそうとしても…
d0031853_420262.jpgステーキにつける塩、にんにくのカリカリ揚げ、京漬物、ワサビ。

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私だけ3,800円のレディースコースだったので、デザートが3品。ほかの人は3,500円のミニコースだったので、右の洋梨のシャーベットだけでした。私のは左がフルーツ盛り合わせ、向こうが黒ゴマのムース。うふふ。

d0031853_4224898.jpg夫と義母はアイスティーでした。
最初の目的地だったお好み焼き屋さんがなくなっていて偶然こちらに20年ぶりくらい?で来ましたが、とてもよかったです。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-27 04:23 | 外食 | Comments(4)

義母を介護付き有料老人ホームへ その3

 ベッドと、衣類やタオルやリネン類などの入ったロッカータンスだけ運送業者に運んでもらい、義兄が一晩一緒に泊まるための寝具や母の寝具、それに置台としてこれまで使っていた折り畳み机を私の車で運びました。義兄夫婦と母と私の4人が出発したのはトラックの出発よりかなり後でした。
 施設へ着くと、運送業者さんがベッドを運び込み再びヘッドボードをつけたりロッカーを包んでいたクッション材を外すところでした。
 義兄は家に帰る兄嫁を駅まで送り、私は職員の作ったケアプランの書類を見ながら義母の様子を説明し、どんな世話が必要かを話しました。職員の方によると、義母の歩くスピードが速いのにびっくりしたのだそうでした。なるほど、同じグループ15人の老人たちのなかではさっさと歩ける方。手続きが終わりホールでくつろぐ老人達の中に母が入ると、そのうちの1人が素っ頓狂な感じで「あらー、〇〇さんじゃないの、ほら、私、女学校の2級下のKですよ。お宅まで行かせてもらったこともあるわ」と話しかけてくる人がいてびっくり。その人の家を聞けば、母が以前買いに行っていたパン屋さんのお向かいでしたので、私もよく知っているお宅でした。奇遇でした。
 「まあ、〇〇さんがご一緒できるなんてうれしいわあ。〇〇さんは優等生じゃったですね。お父さんは〇〇にお勤めで」などと昔のことをよく知っていました。母は認知症なのでその人をさっぱり覚えていず、きょとんとした感じではありましたが、1人でもお仲間がさっそくできてよかった。
 そのうち駅まで行っていた義兄も戻り、運び込んでいたお布団をベッドにセットしてあとは義兄に任せて第一夜が来ました。

 そして26日(火)。どうなったかなと思いつつ、私はここ2か月間ご無沙汰だった美容院へ午前中行き、昼前義兄を迎えがてら行ってみました。義兄によると、前の晩は母は入所者に何か言われても「私はすぐ帰りますから」などと言っていたのに、その朝はしっかり朝ごはんも食べ、昼ごはんも食べ、帰ると言わなくなった由。それに前夜同窓生だと言って喜んでいたKさんが、2、3か所の施設を回ってここにきて、ここが一番いいと言っていたとのこと。よかった。そこで義母に、「ここは他と比べてもいいところらしいですよ。人気が高いから順番待ちの人が多くて、お母さんは入れて幸運だったんですよ」というと「そうかな。ここは端っこで角部屋で窓も2方向にあるからよかったわ」と前向きな言葉。
 持参した父の写真などの入った写真立ても折り畳み机の上に飾られて、自分の部屋という雰囲気が出てよくなりました。また、この朝持参したカレンダーは、押しピンを使うと入所者が踏むなどすると危険なので、と粘着シール数個で貼られました。
 認知症のよいところは、険悪だった前の日のことはすっかり忘れてくれたことでした。そして前からその部屋に住んでいたかのように、気分が落ち着いた様子を見て、義兄と一緒にお昼を食べに行くから、と退出してきました。
 
 施設に入ってもらって、あこがれではあった夫との2人の生活が始まりました。これまで朝起きると母のデイサービスの迎えに間に合うようにと母を起こしに行き、侵入者を防ぐためと言って母が前夜に作っていた門扉のところのバリケード?を除き門をしばっていた紐とかタオルをほどき、薬をセットするなどの一連の作業から解放されました。
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食事も母の分のおかゆに近いご飯を炊いたり、青菜を軟らかく茹でて細かく刻んだ胡麻和えを作ったり、翌日のお昼にと持ち帰ってカビがはえそうな残りものをかたづけたりする心配をしなくてよくなりました。夕方5分おきくらいにその日のご飯が心配で聞きに来る母に私が作るから心配いりませんよ、と話して安心させる必要がなくなりました。
出かけていてもデイサービスの送りに間に合うようにと帰らなくてもよくなりましたし、休日ドライブしていても夕食の支度に間に合うようにと出先から午後3時には必ず引き上げてこなくてもよくなりました。夫との旅行をするために兄弟たちに留守番に来てもらわなくてもよくなりました。
 あとは義母のエリアの膨大な古い物たちをたぶん1か月から2か月くらいで片付けるだけでよくなりました。それから母の汚した衣類を洗濯するのもお願いできたのでしなくてよくなりました。季節の衣替えだけで済みます。

・・・これらの老いた親と暮らしてきたたくさんの事を引き受けてきた私の暮らしは、あとは夫の健康管理が私の重要な課題です。今年急死した夫の大学時代の同級生は、夫とほぼ同じような病歴の持ち主で、墓参りに行った同級生たちのメールの中には、次は私の夫の番か、と冗談にも言ってほしくないことが書かれていました。意地でも次にならないように気を付けてあげなければと思います。
 義父の介護にかかったころ、私は38歳でした。今私も老境に差し掛かりました。幸い私は今のところ健康ですので、いいこともたくさんあることでしょう。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-27 03:22 | 老いということ | Comments(4)

義母を介護付き有料老人ホームへ その2

 そうはいっても一緒に暮らしていると、義母は嫁の私を非常に信頼してくれており、感謝の言葉を絶やさず、デイサービスセンターからの迎えの職員にも、靴を履くのを手伝ったりするにつけて「いい嫁でしょう?最高の嫁です」などと言ったり、また夫と3人での食事中にもたびたび「私はあんたがたと一緒にこうして暮らしていけて、最高の老後を送らせてもらっている」と言ったり、ご近所で大きな家に1人暮らしのお友達が施設入所されたというと、「施設になあ、あんなところに私は入りたくない」と言われ、その施設入所の手続きを進めているのに、と後ろ暗い思いをしました。

 とうとう最後の手続きが終わり、入所日を4月23日(土)と決め、部屋にはなにも家具は備え付けてないのでローチェストと軽くてすわり心地のよい籐のテーブルとイスのセットを購入。ところが家具屋が引越しシーズンのため配送が30日までできないと言われ、急きょこれまで使用していたロッカーを物入れとしてもって行くことにし、下着やタオル、服などに名前を書いて入れる作業が加わりました。ベッドは父のために買った介護用ベッドを使っているのでそのまま運ぶことにしました。
 そんな矢先、なんと義妹の夫が亡くなり、その日がお通夜と言うことに。急きょ延期してもらい、お通夜と葬儀を終えた25日(月)に変更。お葬式を終えた24日の夜は、もともと入居日の夜は一緒に泊まってくれる手はずになっていて来てくれていた兄と、葬儀に駆け付けた兄嫁、私達夫婦と一緒に食事に出かけた母は、夜景のきれいなお店で大はしゃぎでした。
 翌日午前中、つまり入居当日の朝、私は施設に運ぶための荷物に入れるつもりで義母の薬を玄関先に置いていたところ、義母がそれを見つけていじっていたので、「きょうはお引越しだから薬を出しているんです」というと、それまで3日間毎日言っていたにもかかわらず認知症のためすっかり忘れていて抜き打ちであるかのように「そんなこと私に黙って勝手に決めたの」とたちまち不機嫌になり、「施設に行くくらいなら死んだ方がまし。あそこから飛び降りたら死ねると思う場所があるから。食べずにいて死のうか。朝食なんてどうでもいい」などと言い、険悪な雰囲気で、しまった、と思いました。どうしよう、ベッドの運送業者は午後3時に予約しているのになあ、と思いましたが、幸いしばらくすると朝食は食べ始めてくれてほっとしました。
 昼過ぎ義兄夫婦が来てくれ、義母と一緒に買ってきた巻きずしを食べて気分を和らげてくれ、そうしているうちに運送業者が来ました。
 同じ室内で運送業者がベッドを運ぶためにヘッドボードを分解しはじめ、「やっぱり行くんかな」と母。ベッドと、その脇にあった物入れのロッカーを運びだし、いよいよ私たちも、となると、「息子らにそんな目に合わされるとは思わなんだ、もう一生帰ってくることはできん。ここが好きじゃったのに、景色も見納め、さらばさらば。・・・仏さんに最後のお花をあげるわ」と、かねて私が母のために植えていた庭のキンセンカをお供えして、家を出ました。(続く)
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by kurashiki-keiko | 2011-04-27 02:08 | 老いということ | Comments(0)

義母を介護付き有料老人ホームへ その1

 昔は養老院といっていた老人ホームへ親を入れるというのは、現代の姥捨てではないかと当人も私も思っていたところがあり、抵抗感がいっぱいでした。私の母もその母も、姑を最後まで家で看取り(母の場合は病院に入って病院と家との往復でしたが)、その間は人生を犠牲にしてきたわけです。
 昭和62年に親との二世帯住宅を建て、昭和が終わると同時に夫の両親と住み始めてからは、介護に遠くまで通わなくてもよくてドアひとつ開ければとなりに行ける、というわけで、朝から晩まで、時には熱を出して夜中も、いわゆる下の世話を含めて足掛け9年間義父の介護を義母と共にしました。夏休みにも朝8時半には義父をベッドから車いすへの移動、朝食介護などが始まるので、子供の勉強などを見ることもままならず、どこかへ連れて行くこともできず、また学習発表会の出番に行こうとすると「おしめを替えてから行ってくれ」と言われてそうすると間に合わなかったことも。
 義父を看取った時には末っ子も高校3年生になっていて、やっと落ち着いた生活が出来ると思う間もなく遊学のため家を出て行きました。私の30代の終わりから40代の終わりごろまでの人生は介護に明け暮れました。
 
 義父が亡くなってから直後の3年間は今度は嘆き悲しむ義母の世話で暫くは大変でしたが、三回忌が終わるころから徐々に楽になり、パソコンと出会ってからは夫と出かけた先のことをメールマガジンに書くなど楽しいことも多くありました。およそ10年くらいは義母も自立して過ごしてくれてそれなりに楽しむことが出来ましたが、その義母も少しずつ変化があり、検査の結果は認知症でした。
 それでもその進行を抑える薬のおかげでなんとか元気で、デイサービスのおかげで楽しく過ごしてきましたが、昨年末の腰椎の圧迫骨折の治療のためには2か月ほど寝たきり生活を送り、さらに大腿骨の骨頭にひびが入り、整形外科に入院治療のためには付添いが必要とのことで、義妹と交代での泊まり込みも。
 そして前後して少しずつ時間の感覚がわからなくなったり異常行動も少しずつみられるようになってきました。

d0031853_9115184.jpg 実は兄嫁が自分たちもここなら入りたいという老人ホームがあり、全国展開しているので我が家から近いところにあるその施設を夫の兄弟と私と本人とで2008年4月に見学に行きました。(写真は個室の見学中のもの)、そこの窓口になった人がまた感じがよかったので、一応書類を出して待機者の1人として申込みをしていました。順番が来てもまだ入居するほどではないと感じたら後の人にその番をゆずってもよい、とのことで、これまではほかの兄弟たちがそれを勧めても夫と私がまだまだ、という気分で一緒に住むことを選択してきたのでした。
 しかし今年になって、空きが出るかもしれないとの連絡を受けた時、夫の兄弟たちが、私の年齢からすると人生の3分の1を介護に明け暮れている、それではかわいそう、と言ってくれて、夫ももはや母を施設に入れたい、と言いだし、先へ一歩を進めることになりました。(続く)

[有料老人ホームと私たちの生活」http://www.e-nursing.info/taiken.html
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by kurashiki-keiko | 2011-04-27 02:01 | 老いということ | Comments(0)

訃報

 昨年9月末に突然具合が悪くなり、自宅から救急搬送された先の病院でずっと長期療養していた義妹のつれあいが4月22日午後、亡くなりました。
 たまたま義母を見るために帰省してくれていた義兄に私の車を提供、義兄と夫が妹を心配して駆けつけ、私は高齢の義母に付き添って留守番。23日はお通夜で、お香典を持参した夫が持ち帰った挨拶状の言葉に心打たれるものがありました。
 
 「心は丸く 芯は強く 真っ直ぐに歩んだ父を想って」
いつも柔らかい表情を浮かべていた父でしたが 凛とした姿勢に芯の強さを感じることが出来ました誰に対しても笑顔なのは すべてを包み込める広い心を持っていたから 誠実な人柄で皆様から慕われた自慢の大黒柱でした
私たちが幼い頃は学生時代から続けていた剣道を通して様々なことを教えてくれました 竹刀を交え汗を流した時間の中で礼節を重んじること 何かに真剣に取り組むこと そして親子で々時間を共有することの素晴らしさを肌で感じたものです 思い出を振り返るたびに大きな存在だったと有難さを噛みしめております
在りし日を偲べば離れがたい思いが募りますが 胸に残る面影はいつまでも私達を支えてくれるでしょう 今は溢れる感謝を混めて「ありがとう」の言葉で見送ります
父〇〇〇〇は平成23年4月22日69歳にて尊い生涯をとじました
これまでの父の歩みを支えて下さった全ての皆様へ深く感謝申し上げます
本日はご多用の中ご会葬いただき誠に有難うございました
略儀ながら書状をもってお礼申し上げます



 …勤めていた会社が倒産しその後始末をし、従業員たちに後の就職先を世話するなどいろいろと大変なことの多い人生ではあったけれども、このあいさつ文にあるように人柄は穏やかで内に強い芯を秘め子供たちに多くのことを残した立派な父であり夫であったと思います。いつも明るく活発な義妹もその夫の支えを失いこの先が心配ですが時間をかけて少しずつ立ち直ってくれるようにと願います。
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by kurashiki-keiko | 2011-04-24 03:18 | しみじみしたこと | Comments(2)