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置かれた場所で咲きなさい―88才渡辺和子先生がキンスマに

d0031853_00061894.jpg同窓生から、渡辺和子理事長がキンスマに出演されるらしいと聞いていたらすぐの金曜日にご出演でした。大竹しのぶさんが岡山まで来たのだとも聞いていましたが、番組冒頭に大学を大竹さんが訪ね、案内してシスターが歩かれる場面があり、文化財の建物の学内の風景に見入りました。ノートルダムホールの大講義室の一面の広い窓からは黄色に色づいた銀杏の並木が見え、シスターは「私の講義よりも多分学生はこの銀杏並木を見ているかもしれません」とおっしゃっておられましたが、いや、シスターの時にはユーモアあふれる講義は興味深くで銀杏よりはずっと魅力的だと思います。
サプライズゲストに登場していただきましょう、と大竹しのぶさんが入ると、学生たちがざわめいてキャー、と言っていました。大竹さんは「私はあなたたちと同じ年ごろから女優を始めました。この年になっても新しい発見があるのがうれしい」?(内容を忘れましたが)とか講義用のマイクを通して話していました。
学内の浅くて丸い水たまり?を前にして、「これは自分の姿を映してみる水鏡(みずかがみ)です」とシスター。悩んだときなどにふとその水鏡に姿を映してみるとよいとのこと。



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マザーテレサの通訳として岡山の教会での講演に同席され、さらに大学の修道院に宿泊されるのを案内されたとき、疲れていらっしゃるだろうに笑顔でフラッシュを浴びていたマザーテレサの姿を、フラッシュがお嫌いではないのかしらと思ったけれど、それは神様との取引で、マザーがフラッシュを浴びるたびに神様からの救いがあるようにと取引しているからと聞いた話、その他マザーテレサの生き方やらエピソードが番組の中ごろを構成していました。

軍人の渡辺錠太郎教育総監の末っ子として旭川師団の師団長の娘として生を受けたシスターの生い立ちも詳しく紹介されていました。お母様にとっては長女の生む孫と同じ年に娘を出産したようで、生みたくないと思ったようですが、お父様が「生んでおけ」と言われたからこの世に生を受けたそうです。この子とは長く一緒にいられないだろうから、と兄たちがうらやむほどにかわいがられたそうです。この番組中ではなかった話ですが、宮中に招かれていくと、お菓子をポケットに忍ばせて帰ることもあったようです。
 海外の事情に詳しかったお父様は戦争反対論者だったために血の気の多い軍部の人から疎まれていたらしく、それがあの二・二・六事件に暗殺されることになったとシスターからうかがいました。いつものようにお父様と同室で寝ていたところ、午前六時、騒がしい音がして、お父様は和子さんに「お母様の所へ行け」と言われて自分は布団をかぶってピストルを持って応戦体制に入っていたようです。ところがお母様は玄関先で押し入ろうとする反乱軍の兵士たちを押しとどめるのに必死だったため、和子さんは元の寝室へ行くと、お父様は困った顔をして、立てかけてあった籃胎(竹を編んで漆をかけたもの)の座卓の後ろへかくれるように目で合図されたそうです。座卓の後ろに隠れるとほどなくふすまが30cm位開いて、そこからなんとお父様が輸入するようにと進言したという軽機関銃が差し込まれ…銃弾43発を撃ち込まれて、お部屋は血の海に。和子さんは9歳にして初めて出会った死というものがそういうお父様の凄惨な死の現場だったそうです。今ではただ一人の二・二・六事件の被害者の生き証人でいらっしゃいます。
 お父様を失くされてお母様の「父の名を辱めないように。一番になりなさい」という厳しいお言葉通りに必死で勉強する勝気な少女だった和子さんに、お友達が「和子さんは鬼みたい」と言われたとの事。お母様には反抗し、そんな自分が嫌で変わりたい、と願って双葉のシスターに相談したところ、「それなら洗礼を受けなさい」と言われ、「うちは代々浄土真宗だから。いまどき敵国の宗教に入るなんて」と大反対のお母様を押し切って、荻窪のご自宅から四谷の双葉まで(私は東京の地理にくらいのでよくわかりませんが)防空壕に入りながら1日かけて歩いて行って洗礼を受け、その直後双葉の建物は爆撃を受けて消失したので、そこで洗礼を授かった最後の人になったそうです。(このエピソードはテレビに再現ドラマに出てもよいように思ったけれど出なくて残念)
 戦後軍人恩給もなく、上智大学でアルバイトをしながら一度国文学科を卒業されてから、これからは英語の時代だと、英文学科をご卒業なさったとのこと、首席で卒業されたとの事。テレビでは出ませんでしたが、国連高等弁務官の緒方貞子さんと同期で、緒方さんが英語の答辞を、渡辺和子さんが日本語の答辞を読まれた、と聞いています。卒業時の1枚の集合写真にお2人の姿があるのを見たことがあります。
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こちらの写真は、38歳でノートルダム清心女子大学学長に抜擢された直後の時代のものでしょう。それまで初代と2代学長は70才代のアメリカ人シスターであったのに、いきなり経験浅い30代の、日本人の、地元でもなく大学卒業生でもないシスターが学長に推されたのですから、風当たりも強かったのでしょうか。
 わずか37、8歳の学長就任は当時日本一若い、女性学長としてマスコミをにぎわせたのでした。
私も高校時代にこのインタビュー記事を見ました。
 大学では学長でも、いったんドアを開けて修道院に帰るとそこでは一番年若い下っ端のシスターであった、というその差でかなり苦労をされたようです。
 しかし、私の知っているシスター渡辺和子先生は、とても物覚えがよくて、学生一人一人の名前を憶えていらして、「そうですね、○○さん」と名前を読んでくださることにびっくり。また、私の在学中に始まった「スポーツデー」では当時40代くらいでいらっしたか、長い修道服を翻してさっそうと私の同学年の卓球上手な人と互角以上に卓球の相手をなさり、聞けば昔は男性相手にするほどお強かったという事でした。
 修道院にはいられてから、命令によりアメリカに渡り哲学博士の過程を修了された哲学博士である渡辺和子先生のお言葉の数々は皆さんの心のよりどころとなって息づいていることでしょう。自分が面倒なことをすると、それは「神様のポケット」に入る、とか、「こんなはずではなかった」と思っていたシスターにくださったある神父様からの詩集に「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があった、とか、その人その人の心に落ちる言葉があったはずと思います。
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民放での番組だしどんなふうに扱われるかあまり期待していなかったのですが、冒頭の大竹しのぶさんが大学を訪ねるあたりは私にとっては良かったし、途中時間稼ぎみたいにマザーテレサの生涯と仕事についての話が詳しく入ったのと伝記にあたる部分後半がかなりはしょられていたのを除けばとてもよかった番組だと思いました。渡辺和子先生という人をご存じなかった人に詳しくお知らせすることができ、ファンを広げたのではないでしょうか。



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by kurashiki-keiko | 2015-10-31 00:01 | 新聞・テレビから思う | Comments(4)

なつかしい町―児島味野―を訪ねて

倉敷の町屋トラストが出しているイベントのパンフレットの様々なイベントの中に、私がかつて高校生時代に時々通っていた教会のオープンハウスというのを発見し、懐かしくて行って見ることにしました。
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味野の市営駐車場に車を置いて徒歩10分くらいか。当時は車も少なかったので、道路もこんなに狭かったかと思いながら歩きました。昭和30年代には大勢の住民が若くて活気があった住宅地も、車社会になってみると車一台がやっとの道幅ではなかなか発展性がなく、所所に空き家らしい建物やら更地がありました。そんな中、山の中腹の見晴らしの良い教会にたどり着きました。オープンハウスということで、ほかにもカメラ片手の若いカップルなども。
日曜礼拝の時間で牧師さんの声が響いていました。
蔵の中をどうぞ、と言われて行って見ると、昔庭にあったという、キリシタン灯篭も砂岩で浸食されるので、と取り込んであったり、懐かしい時代の写真がありました。
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こちらが昔私が高校生時代に行っていたころのお屋敷の面影のある教会の建物。お金持ちの荻野家の建物を買い取ったものです。余談ですが私の父の従姉妹が、ここの元の持ち主のお嬢さんと岡山の一女で同級生だったそうでした。
私が行く気になったのは、当時スウェーデン人の宣教師家族がいて、外国人が物珍しくもあったためです。エバちゃんという女の子は地元幼稚園に通っていました。高校生対象のクリスマス会にも参加したり、奥さんが牧師館でケーキを焼いて見せてくれてとても珍しく、それをおやつにいただいたりしていました。そこで聖書の勉強をかじったこともあり、大学でも聖書研究の授業を取りました。
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庭から古い母屋と新築された教会堂の建物を見たところ。
受付には母と読書会で一緒だったというお方がいらっしゃいました。
なつかしくなって、昔住んでいた家の方へ行って見ることにしました。
中学時代に通学路として徒歩で通った道を通ったのですが、こちらも空き地が所々にあったり、伸び放題の木々のある立派な塀の建物があったり、人っ子一人歩いておらずひっそりしていました。
そして、我が家へ入る路地の入口の家の前庭で畑の草取りをしている女性がいました。なんと、お隣の家の同級生。もう40年ぶりくらいでしょうか。話しかけると向うも、信じられないという面持ちで私を確認し、近況だの友達のことだのを話し込んでしまいました。
懐かしい我が家、今は何もなくなって。小学1年生で私はこの家に越してきました。当時は板塀に囲まれていて、お隣は2軒長屋、そのこちら側は玄関の土間に少し建て増しをして、4人くらいお姉さんを雇って学生服の部分縫いの家内工業の工場にしていて、ラジオの音を流しつつ工業用ミシンのがー、がー、という音が響いていました。
木造平屋建ての安普請の家で、太った父が廊下を歩くとみしみしいうような家でした。住み始めたのが昭和31年のことでしたので、当時はベビーブーム世代の子供たちが近所にいっぱいいて、路地を友達のお兄さんのガキ大将を筆頭に路地を駆け回ったものです。d0031853_02514934.jpgd0031853_02510804.jpg














坂道を下って行くと、わが母校なのです。正面の門の所。が、こちらはだいぶ前に山の上に移転してしかもその後学校統合により名前が変わり母校は消滅してしまいました。校舎も取り壊され、今は何に利用されているのやら、わけのわからない空き地みたいな感じです。
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かわらないのはこちら
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塩田王、野崎武左衛門の記念碑です。
この記念碑のまわりの庭園は昔の遊び場でした。
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この建物は昔映画館でした。昔この道の背後にあたるところに敷島紡績の工場の従業員出入り口があり、自転車の人が大勢出入りしていました。友達のお母さんが映画館を、お父さんが電器屋さんをしていました。今回行って見ると、1階左手には先ほどの教会を設計した設計事務所らしいのが入居していて、向かって右手が友達の息子さんがシェフをしているフレンチレストランのようでした。
商店街には、昔は大勢の人が歩いていたものでしたが、人っ子一人歩いていません。
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10年くらい前に知り合った和菓子屋の「塩ちゃん」が、「猫の足音が聞こえる」などと言っていましたが、本当にそんな感じ。
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あら、昔はアーケードに隠れていた本屋さんの建物って、こんなに立派だったんだ。中学の担任の先生が下宿されていたけれど、上の方にはこんなに部屋数があったのね。
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あれ?商店街のまん中にある天神様の鳥居の下で何やら若い人が。このあたりからハロウィーンの扮装をした子どもや若い人の姿が目につくようになってきました。あれ?
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な、なんだろう、この子供たちは?この写真の上の方にはジーンズがぶら下がった「ジーンズストリート」の象徴のような飾り?があります。
先日NHKのラジオやらTVやらでこちらは取り上げられていましたね。
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今でもがんばって営業している「塩尻喜月堂」の和菓子屋さん。売り物は塩田のあった児島らしく「塩羊羹」「塩饅頭」。祖父母の家に夏休みなどに行くときには決まってここの塩羊羹をお土産に持って行っていました。
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塩饅頭もデニムでラッピングしてお土産としてグレードアップしているようです。子供たちも興味深々でみています。
塩ちゃん、がんばっていますね。
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死んだようにひっそりとしていた児島の商店街も、地域おこしのジーンズストリートのあたりは人が行きかっているのを見てホッとしました。閉鎖的だった狭い商店街の道にも、南北に風通し良くなる広い道路がついて、現代に生き残る道を探っているようです。本当に、がんばってほしい児島の町です。



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by kurashiki-keiko | 2015-10-27 03:33 | しみじみしたこと | Comments(2)

干し柿作り

 例年夫が、大好物の干し柿を自分でむいて作るのが恒例なのですが…年のせいか今年はさっぱりやる気になってくれず、したがってもう「やーめた」とばかりに、以前は県北のほうまで買いにでかけていたのに動きませんでした。
 ところが、25日(日)に娘が婚家のお舅さんの農作物を届けに来るというその中に、「柿もらったから持って行く」と、つるし柿用の渋柿がひと箱あるとの事。
 夫がそれでやる気になるかと思いきや、やっぱり面倒がって3,4個むいたところで作業中止。夜なべが大儀になったのです。
それで超忙しい私がやらざるを得ず、貴重な在宅日でしたが、つるすための紐がいる、とばかりにホームセンターに行くとなんとちゃんと「柿の紐」とラベルの付いた、2本をよじってあってその間に柿の小枝を差し込めるようになった紐の丸めたのを売っているではありませんんか。ただ、その紐の大きさがでっかい。これは柿農家さんのためらしいけれど、ほかにはないようだし、紐だからまあほかに転用してもよいか、と購入。これまではポリの紐を2本自分でよじって使っていましたが、途中で柿が落下するなど具合が悪いことも多々あったものですから。ただこの紐の巻きの大きさだと10年くらいは使えそう。
 他にもすることが一杯なので考え考え、出来るだけ短時間で出来るようにとむき方を考えました。
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これまで夫がむくのを横で見ていて、熱湯につけるところは私がしていたのですが、今年私がむいてみて、らせん状にむいていくよりも、以前コックさんがじゃが芋をむくのに両端を切っておいてから縦にすっすっとむいていたのを思い出して、へたを下に向けて上から縦にむいていくと思いのほか能率よくむける(ような気が)ことを発見。へたに近い所は少々むき残しがあっても食べるに差し支えなし。という事。あと、へたにつけるT字形の小枝がT字になっていないのも6個くらいあって、それは竹串をさして、ひもをほぐしてつくる穴を大きく開けたらさすがそれ用の紐、うまくいきました。
そんなわけで、午前11時くらいから始めたつるし柿作り、午後1時頃になんとか干すことができました。熱湯消毒に使ったお湯は柿渋で褐色になっていました。
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秋の陽に照り輝くようなオレンジ色、われながらほれぼれ。しかし火曜日午後から夜には雨の予報が出ているので、どうかかびないように、と祈る思いです。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-27 01:49 | がんばったなあ | Comments(2)

2歳の孫と半日

 昨日5歳のゆう君と手紙を出しに歩いてしみじみしたばかりだというのに、今日は下の孫と半日を過ごしたという話題です。
実はオニイチャンのゆう君が親子遠足のため、下の孫(実は昨日が誕生日で2才になったばかり)をあずかることになっていたのです。
元気だったら、私の出かける先の友の会の家事家計講習会のリハーサルに連れて行っても、と思っていたのですがなんと、3日ばかり体調が悪く、熱が出たり吐いたりという様子なので心配していましたらやっぱりはかばかしくなく、家で静かに過ごさせないと、という事で行事の方は欠席となりました。
 午前中はお絵かきをしたり、昼前暖かくなってからは庭で三輪車を、自分ではまだこげないので後ろに付いているハンドルで私が押してやったりして遊ばせ、11時になったのでおしめを替えて二人で石けんで手洗い、母親が作ってくれたお弁当を広げました。体調が悪いのであまり食べられず、おにぎりには手がつかず。私が前夜の残りのおでんの大根を食べさせると3口ばかり食べたくらい。
 そのうち機嫌が悪くなったと思ったら「寝意地」で、だっこしてやると私の胸で寝始めました。鼻水がずっと出るので横に寝させると息が苦しいらしく、かつて息子もぜんそくの発作が起きていた頃には横になって寝られずに掛布団を畳んだ物にもたれかかるようにして眠っていたことを思いだしました。そこで縦抱きにしたまま寝させることにしました。所在ないので私はテレビを見ることに。結果、12時過ぎから2時半ごろまで、途中2度ばかりぱっちりと目を開けることがあったのにまたすやすやとぐっすり眠りました。
 眠ることで少しは病状が回復するといいなと思いつつ、2歳になってぼってりと重くなった体重をささえぬくもりを感じつつ過ごしました。今日も幸せな時間でした。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-23 23:20 | しみじみしたこと | Comments(2)

孫と歩けば

 家族新聞を封筒に入れていると、5歳のゆう君がやってきました。切手の小箱を置いていたので興味を示し、貼らせてやろうかと思いました。ところがこれが結構難しい。身内とはいえ、お嫁さんの実家もあるのできちんと貼りたい、郵便番号の四角の上の腺に切手の上の腺が揃うようにね、と、自分でどうやって貼っているかを考え、孫にも、左手の人差し指に切手の左端の角を持たせて、まっすぐ、まっすぐ、と手を取って教えるけれど、何しろ初めてのことなのでなかなかうまくできません。すこーしずれたりもして、5通になんとか貼れました。
 そこで、夕方5時前だったので一刻も早く出したいと、郵便局まで自転車で行く予定だったのですが、「ポストに入れたい、入れたい」とゆう君が言うので、こういう機会もめったにないし、幸い夕食のメインはおでんでもう作ってあったので、いらいらせずに歩いてすぐ近くではなくて少し距離があるけれど県民局の前のポストなら集配の回数が多いので行くことにしました。
 ゆう君はうれしくてこういう場合はすぐに道に駆け出して行ってしまうので、しっかり手をつないで離さない事を言って聞かせ出かけました。すると「あっ、月が出てる」。半月がもう中空にかかっていました。
また、町内の人が庭の草取りをされているのに出会い、「こんにちわー」とご挨拶したり、また犬の散歩をしている人2人にも出会い、こちらははらはらしましたが犬をなでなでしたり。
 住宅地の路地裏の道で幸い車には遭わずに済み、児童公園が途中にあるので遊びたいとぐずったら困るな、と思っていたら、小学生が5人くらい遊んでいたので、「ちいさい子はもうお母さんとお家に帰っている時間だからね。ゆう君もね」と言ってなんとか通過。
 ポストに着き、1通ずつ少し背伸びしながら無事投函することができました。後で「これはだれだれさんあてだから、着くといいね」と言いながら渡したらよかったなとちょっと後悔。
 また手をつないで帰りかけると、さっきの草を取っている人がまだ庭にいらっしゃって、「お手紙だしたよ」とゆう君。「よかったね」。バイバイ、と手を振りながら通過。
 また月が見えました。「お月さんはどこまでもどこまでも追いかけてくるよ。あとでまた見てみようね」
と言いながら上を見させてまた児童公園の脇を通過。家の近くまで来てから月がやっぱりついてくるね、不思議ね、と言いつつ歩きました。
 農業用水の川では水の中の藻にちょっと興味を示し、「あの黒いの」と指差していました。ゆらゆらしていたからでしょうか。
 小さな孫と手をつないで無事に15分くらいで行ってくることができました。夕食を朝仕込んでいたのでゆっくりと孫と付き合えたこと、今回は本当によかったと思います。
 あとで考えてみると、このよい時候に、来年小学校へ上がる早生まれの男の孫と手をつないで歩くことはもう多分これからないのではないかと思われ、本当に貴重な時間だったのだなあ、といとおしく思いました。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-23 03:11 | うれしかったこと | Comments(0)

家族新聞「あじさい通信」222号ができました

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 今月号の記事はたくさんあったのと、忙しくてあまり記録を取っていなかったので編集に手間取り、朝10時過ぎから午後3時までかかってしまいました。たまたま在宅日だったからいいようなものの、また今後は多忙な日々が続きます。
 さて、やっぱり赤ちゃんには勝てない、というか次男の所の赤ん坊がお食い初めだったのでそれがトップ記事になりました。先日「大皿がないか」と言われていて、その時はずっと使っていないものがあるからと譲ったら、この時の鯛を乗せるためだったのでした。えーっというくらい大きな鯛の塩焼きが乗ったそのお皿。お皿も喜んでいることでしょう。
 お嫁さんががんばって赤飯を作ってわが家にも届けてくれました。うれしさいっぱいの次男一家です。
そして娘の所からは落花生(ピーナッツ)を収穫したからと届けてくれたと同時に、娘婿が昇進したとの事で名刺をもらいました。名刺をもらうのも初めて。「これで新聞に載せてもらえる」とまた娘婿さん。お望みどおりにのせました。ピーナッツは大型封筒に入れて電子レンジで5分くらいするとおなじみの形で食べられることと、五目豆みたいな煮豆にもしたり、ピーナッツ豆腐を作ったりと、色々作ってみました。
 あれやこれや、編集に困るほどの記事があるのはうれしいことです。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-22 16:29 | 家族新聞 | Comments(3)

児島ジーンズストリートの話題がNHKラジオ「午後のまりやーじゅ」に

昨日の予告でわくわくしながら待っていました。
いつも聞いているNHKラジオ。午後のまりやーじゅに、児島ジーンズストリートの組合長?の方がゲスト出演なさるとの事。わくわく。
私、生まれは今の岡山市西大寺ですが、小学1年生の時に父の赴任に伴って初めて児島の地に足を踏み入れました。
住んだ家の隣には、玄関土間を改造した家内工業の工場があり、工業用ミシンが4台ほど、若いお姉さんが1日中山陽放送のラジオを大きな音で聞きながら、がーっ、がーっ、と一定のリズムでミシンの音を立てて学生服の部分縫いをやっていました。
働く女性の町なので、母がたまたま専業主婦だと、「遊んでいる」という事になっていましたっけ。
そんな児島、国産ジーンズ第1号を作った町なんですね。
私も当時の女子大の寮ではジーンズをはき始めたパイオニア?でしたっけ。
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じジーンズがいかにも似合いそうな風見しんごさんと山田まりやさんが番組を盛り上げつつ、このゲストの真鍋さん、あまり岡山弁が出ないくらいにとてもトークもお上手で、児島のジーンズの発祥のことから色々と話してくれました。
・・・実は、私この2時からの時間帯が歯医者さんの予約になっていて、ポケットラジオを持って診察室に。だけど、診察室では例の器具がガーッとなると電磁波が出るのか全然聞き取れず残念。そして、終わって車の中で聞き、さらにスーパーでお買い物の途中にもポケットラジオで聞く、はずだったのに、店内ではやっぱり聞き取れず残念。んなわけで、店の外で聞いてから買い物に入ればよかったと後悔することしきりでした。
 でもまあ、一時は日曜日でも「猫の足音が聞こえる」と商店主のSさんが言っていたくらいに静か~だった児島の商店街も、ジーンズを求める遠くからのお客さんでにぎわうとうれしいなと思います。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-21 18:45 | 新聞・テレビから思う | Comments(0)

中国銀行本町出張所が大原美術館に寄贈される

昨日の朝の地元紙に、中国銀行本町出張所が近くの大原美術館に寄贈される、という記事が出ていてびっくり仰天。
お向かいの郵便局と合わせてとても便利に利用させてもらっていて、行くたびに何様式というのか、高い天井やステンドグラスに、倉敷のほこりを感じてホッとしていたものなので。
 たまたま行きつけの美容院に行くと、そこの美容師さんも、小学校の帰りに汗をかくと銀行に入ってクーラーで涼んだりウオータークーラーでお水を飲んだりして休憩していた、との事。
 愛される地元の銀行が、別の用途になるというのは仕方のない時代の流れなのかなあと思いつつも、淋しさいっぱいです。
夜のテレビニュースで、中国銀行頭取から大原財団の大原さんへ目録の贈呈式が市長さんを交えてあった様子が写されていました。
その記事はこちら⇒http://www.sanyonews.jp/article/246963/1/
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こちらに建物の写真が多数載っていましたのでリンクさせていただきました。
http://gipsypapa.exblog.jp/19128248/
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by kurashiki-keiko | 2015-10-21 12:36 | 新聞・テレビから思う | Comments(2)

早島町を散歩―戸川家記念館、いかしの舎(や)、お祭り

10月18日(日)、久しぶりに早島へ歩きに出かけました。
かつて歩いたので勝手がわかり、公民館の駐車場へ。と、お祭りのためかほぼ満車でした。
公民館で「不老の道」ウオーキングマップを入手して歩きはじめました。
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右手が町役場、左手がイベントホール「ゆるびの舎(や)」です。
ゆるびの舎の手前を左に曲がりました。
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車の多く通る道路沿いに小さな看板と案内の石柱、ベンチのある一角があります。
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今では小学校の一画になっている旗本戸川家の陣屋の遺構についての説明版です。旗本の中では三千石というのは上から5%くらいの格だったようです。
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「不老のみち」という茶色の案内板があります。看板右手が戸川家記念館の建物、左手がその家老格?のお医者さんのお屋敷のようです。
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土塀に囲まれたお屋敷。早島にはこのような古い民家が点在していますが、最近の住宅開発で新しい家が増え、埋もれるようになってきています。古い家を不便を忍びつつも管理して住み続けるのは大変と思いますが値打ちのあることだと思います。
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戸川家記念館です。もとは戸川家の何かの蔵だったのが一時はイグサの倉庫にされていたのが、バブルのころに戸川家ゆかりの品を展示する記念館になったそうです。
日曜祝日しか開館していなくて、受付・ガイド役に高齢男性がお1人。先客が2人ほど、入れ違いに帰られ、私たち夫婦とサラリーマン・営業マンみたいな若い人一人。戸川家の系図だとか、ウサギの形の飾りのついた兜のある甲冑だとか、ゆかりの興味深い品々。
戸川家は戦国大名の宇喜多の家臣だったそうですが、徳川の世になってこの地を拝領し、その子孫の兄弟たちでこのあたり一円を治めていたようです。
 私は平家物語が大好きなのですが、甲冑を見ると、源平時代のものとはだいぶ違い、肩の部分を覆う板状の鎧の部分がくさりかたびらのようになってより動きやすく、また腰巻の当たりも重い板状のものからネット状のものに変化しているのが面白いと思いました。
 また、以前にも拝見して興味深かったものの一つに、鶴崎神社に元のものがあるという、高梁川が氾濫した時の絵図がありました。酒津の当たりの堤防が決壊して、広範囲に洪水が起き、ここ早島あたりでも6尺というから1m80cmほども水に浸かったというのです。先般の鬼怒川の土手の決壊の映像がまだ記憶に新しい所ですし、高梁川水系でもいくら土手が頑丈とはいえこの頃は記録にないほどの豪雨が川筋に沿ってあると、あながち大丈夫と言っておられないかもしれないとその洪水絵図を見ながら思いました。
 興味の赴くままに質問していたらお昼近くになり、このあたりで食べられるお店は「いかしの家(や)」しかないので少しコースを引き返して食べに行きました。
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ちょうどお茶会の様なイベントがあったのか、レストランは満席状態、カウンターにやっと座れました。メニューはこちら。
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「いかしの舎弁当1,000円」、これこれ、と注文したら「限定10食」というのを見逃していて、満席の店内、当然のように終わっていました。残念。そこでカレーライス、飲み物付き900円を。
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再び歩きましたが、この日は快晴でちょっと歩くには暑くて、あまり距離を歩かず、小さく回って帰ることにしました。すると
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行く手をお祭りの行列が通って行きました。ちょうどお祭りの日でした。
この前私の地区を歩いた子どもみこしの行列とは違い、地元を挙げてという感じの住民たちのお祭りでした。
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おみこしの警護役?「鬼」の扮装をした人たち。この地域のお祭り独特の扮装です。
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ちょうどおみこしご一行と歩く方向が一緒になって、向うにちょうどおみこしが2台。2つの神社のお祭りでした。
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おみこし2台並べてそれぞれの宮司さんが祝詞をあげ、一同神妙に頭を下げていらっしゃいました。この道沿いには長い長いお祭りの列が続いていました。
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出発点の公民館にほど近い「ゆるびの舎(や)」に帰ってきました。中をのぞいてみると、スタインウエイのピアノをリレーで演奏するというピアノコンサートが開かれており、発表を終えたきれいなドレスを着た女の子たちが記念撮影をしてもらったりお花をもらったりしていました。

リンク:早島町観光センター⇒http://www.town.hayashima.lg.jp/kankoucenter/kankouwalk.html
早島は2009年1月10日に歩きに行きました。
その様子はこちら⇒http://kurakeiko.exblog.jp/9183565/
かなり詳しくコースの写真を載せています。またその様子を当時連載していたメールマガジンに載せていますので記事中のリンクからお読み下されば幸いです。

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by kurashiki-keiko | 2015-10-19 03:40 | おでかけ | Comments(4)

懐かしい匂い

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今朝、ゴミを出しに歩くと懐かしい匂いがしました。
「この匂いは?」…それは稲わらの匂いでした。気づけばご近所にわずかに残った田んぼの稲刈りが終わっていたのです。昔の、人の手で刈られた田んぼは整然と株が並んでいたものでしたが、コンバインによるためなのか、所々に斜めに長い刈り残しの株が見えます。そして稲わらを干す稲架(はさ)がないのは淋しい気がします。
ともあれ、懐かしい匂いだけは変わらずあたりに漂い、田んぼは明るく広々と広がっているのでした。
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by kurashiki-keiko | 2015-10-16 08:27 | 日常 | Comments(4)