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片付(3) 印鑑と名簿Get、要る物、要らない物の仕分け

 28日(日)、母の愛車は、娘に乗って帰ってもらうべく、まずは夫と娘を拾いに出かけました。母のマンションに向かう車内は久しぶりで親子の会話。先日のお葬式の時、受付にお香典を渡す際に住所や名前を用紙に記入してもらっていた中で、弟が見たら「御芳名」に「御芳名」、「御住所」を住所と消してあったのがうちの娘と、大阪の従姉妹の2人だけだった、という事だったわ、と話すと、「会社で働いているからかな」。それにしても、ああいう場では私も後に続く人もいるから、一度もそんなことをした覚えがありません。往復はがきの「御出席」のばあいは「出席」とするけど…。
 また、娘にとって初対面だった私の世代の従姉妹、従兄弟たちがどういう関係だったのか、と聞かれ、父の上の妹の子供は男2人、下の妹の子供は女2人、など系図から説明。私でもめったに会えない従姉妹・従兄弟たちだったから無理もないのですが、本当にそういう意味でもお葬式で顔を合わせるというのは良い機会だったかと思えました。家族葬にしなくてよかった。北海道在住の下の弟は、子供2人(社会人)と同道しなかったのを後悔していて、四十九日には4人で来たいと言っていたとの事。そうなんです、下の弟の子供達とは父の七回忌の法事?以来会っていません。また、上の弟の孫たちと私の孫たちとはそれぞれ同い年で、長男も「子どもを連れて行っても、関係ないじゃろ」と言っていましたが、ことに6歳の男の子とうちの早生まれでまだ5歳ですが同級生になる男の子同士は、焼き場に行くバスの中でとても仲良くなったようです。亡くなった母にとってはひ孫同士、お葬式を機会に出会って仲良くなるなんて、やっぱり母が引き合わせてくれたのでしょう。

 母のマンションの駐車場で、弟夫婦が来たのに鉢合わせ、もっと遅いと思っていたので。おかげで片付けがはかどりました。
 まず、先日弟夫婦が持ち帰った母のバッグに入っていたのは三文判だけで、銀行印はなかったとの事。ではどこに? 私にはわかりました。両親が新婚時代に松山にいたころ、まだ家具らしい家具もなく、小さな座卓と、木箱に布を貼った本箱くらいしかなかったころからずっと使っていたその座卓がまだ寝室の隅に置いてありました。これは、かつて住んでいた家に泥棒が入った際にも、引き出しがあることがわからず当座のお金を盗まれずに済んだ、という引手の無い引き出しがあるのです。母は私が小さい頃からその引き出しに家計簿を入れていて、毎晩記帳していたのです。そこで一番にその隠し引出しを開けてみると、果たして、奥のほうに2,3本印鑑がいれてありました。あったー。よかった。

 あとは、弟は現在母が事務机にしている、玄関脇の部屋のデスクまわりの事務用品や書類を、弟嫁とうちの娘で台所の鍋やら食器類、天袋の中などを、そして私は寝室の洋服ダンスと玄関脇の部屋のクローゼットの中の衣類を、それぞれどんどん仕分けして行きました。私が持参したゴミ袋に要らないものをどんどん入れて行き、持ち帰るこまごましたものは持参した生協のかごなどに入れてもらいました。
衣類は下着はすべて廃棄処分に、上に着るものは夏物、冬物に分けて45Lのポリ袋に詰めて行きました。洋服ダンスの中はそれほどありませんでしたが、クローゼットの方は外出着が多数ありました。夫はというとリビングルームの食卓脇の本棚を見ていたのですが…「こんな珍しいものが出てきた」と眺めていてちっとも捨てられませんで、あーあな感じ。

 玄関わきの部屋で、弟は事務机のまわり、私はクローゼットの外出魏を片づけながら、弟が田舎に引き取ろうと言っても聞かなかったわけは、クローゼットの華やかな外出着を見たらわかる気がしました。田舎のおばあちゃんたちは、庭の草取りとか孫の世話とかに明け暮れているのですもの。母が自分の趣味や交際に生きていたのに、そんな生活を受けいれられるわけがありません。誇り高く、自立して生きたかったのです。最後頃は体もだいぶ不自由になり、交際範囲もだんだん狭くなり、そろそろ、という所で「もうお母さんは1人暮らしも限界になってきている所で亡くなってよかったのかもしれないね」と話しました。

 昼近くなり、早めに昼ごはんに行きましょう、と呼びかけると、弟が、先日母と最後の食事に出たうどん屋さんに行って見るか?と言うのでみんなで行きました。母がいなくなると、この町にまた遊びに着て外食することもこれからは無くなるのだろうな、と思いつつ、私は最後に母が食べた、という鍋焼きうどんを食べました。

 昼食後も皆それぞれの持ち場で不用品、持ち帰る品をわけ、狭い玄関先へどんどん袋を出して行きました。弟夫婦はお寺にお布施を持参する用事もあるようなので、2時頃終了として、それぞれの車に積み込みを始めました。私の車には先日積み残した植木鉢や、廃棄する鍋類やら台所からでた不用品を主に積み込みました。弟夫婦は、田舎の事で燃やせるものは庭先で燃やす、というので燃えるごみを担当。娘はもらって帰る物を詰め込んで、それぞれに分かれました。衣類は車に乗せるスペースがありませんでした。まだ当分かかりそうです。
 この日の収穫は、電話の脇から、母の女学校時代、写真クラブ、随筆のサークルの名簿がそれぞれ見つかったことでした。これで年賀状のお相手がどのお付き合いだったかがわかりそうです。

 帰宅後、持ち帰った台所の品を、賞味期限切れの物、使えるものに分けたり、中身を捨てたビン類を分けたりでまた一仕事。アルミの鍋と土鍋が一緒に入っていたりしたものを金属と埋め立てゴミなどに仕分け。月曜日に環境センターへ資源ごみやら埋め立てゴミとして持ち込めるように再び車に詰め込みました。
 夕方、お付き合いのある民生委員の方々がお香典を持参してくださり、またひとしきり母の亡くなった時の様子をお話しました。ちょうど前日にお返しの「茶の子」を弟の所からもらってきていたので、お渡しすることができて良かった。あいさつ文も私が書いているというと、読みますと言って帰られました。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-29 03:49 | がんばったなあ | Comments(2)

片付け(2) 遺品と通帳

27日(土)、夫とともに母のいないマンションに行きました。
先日水やりをしたそのまま鉢物を枯らすのも忍びないので、我が家に持ち帰ろうと、平たいプラスチックの容器とキャリー、それにいつも生協の品物を入れるのに使う手提げ籠を持参。
入口の管理人部屋のドアホンを押してみましたが反応なし。仕方なくそのまま8階の母の部屋へ。第一目的は相続手続きのための通帳類。弟が言った通りの場所の引き出しの中身をごっそり紙袋に入れて手提げ籠へ。印鑑の方は先日弟が持ち帰った母のバッグの中にある模様。
続いて、祭壇には母がふだん使っていたものを飾るのがよい、と仏具屋さんが教えてくれた、と言うので、腕時計2個、メガネが4個くらい見つかり、アクセサリーの入った入れ物も見つかったので透明な袋に入れて同じ籠へ。
それに、入り口近くの部屋には、電器屋さんのシールのしてあるまだ買ったままで箱から取り出してもいないフードプロセッサーがあり、弟の家にはないというので、その後弟宅へ持参することにして同じく籠へ。また、同じ場所にこれまた箱から出してはいるものの、新品の3合炊きの炊飯器があり、保証書の購入年月日を見ると2014年6月1日。1年半もそのままにしていたなんて。母の台所にはそれこそ古びた炊飯器があったのに、壊れたわけではないからと使い続けていた物でしょう。こちらはわが家にいただくことに。
 植木鉢は、君子蘭や葉ボタンの重そうな鉢はこのたびは残して、ベランダの、お友達から苗をよくいただくと言っていた小さなこまごまとした鉢を持参のプラスチックの箱にのせてキャリーへ。
 続いて台所の冷蔵庫は空にしていたので、電子レンジと共にコンセントを抜き、戸棚の中の砂糖や塩、小麦粉、流し台の下にあった醤油や酒、サラダ油などを袋に入れました。
 電話を止めることを思い着いて、NTT西日本へ電話。するとなんと電話の持ち主は20数年前に亡くなった父の名義になっていることが判明。解約するには父が亡くなっていることの証明と、届出人との関係を示す書類、つまりは戸籍謄本?が必要との事。後で弟の長男が家を建てたのに固定電話をまだ引いていないことがわかり、渡りに船とばかりに権利を譲ってもらうことに。
 同じく家を建てたもののエアコンがまだついていないという弟の息子が、割合買い換えて間の無い母の部屋のエアコンを欲しがっているとの事で、これまた都合よく行先が決定しました。
 また、母の愛車ヴィッツについては、弟の家族は誰も乗りたい人がいないとのことで、車関係には縁の深い私の娘に売る算段をしてもらうことにして、キーをもつ弟から預かることにしました。
 母の衣類については、弟嫁もいらないだろうし、私もサイズや色柄の好みが違うし、よさそうなものを選んで友愛セールに出すことにして私が持ち帰ることにしました。
 また、電話の横に、母の交際範囲の手書き電話帳を発見。年賀状から拾った住所録に書き加えることにして持ち帰りました。

 昼食を済ませ、小一時間かかって弟宅へ。弟宅には母のための祭壇が出来ていました。持参した愛用の腕時計やメガネと共に、母の台所にあったバナナを入れたバナナケーキをお供えし、弟と事後処理の打ち合わせ。母のエンディングノートを見せてもらいました。文章を書くのではなく、質問形式になっていて、それにチェックを入れたり、項目に答えを書き込むような簡易な形式でした。そして、お葬式は母の残した財産の中から出してほしいこと、大した財産は残せないけれども、生命保険は長男である上の弟に、貯金は半分ずつ私と下の弟に譲る、と書かれてありました。異存はありません。

 幼児を連れて里帰り中の娘がお香典リストをパソコン入力してくれたとの事。だいぶ助かった模様。手書き電話帳を見せ、コピーしてもらいました。さいたま市に住む従兄弟からは、仕事の都合で列席できなかったので、とお香典とお菓子が送られてきたそうでした。私の所にも、母の従姉妹と、随筆集のお仲間2人からお香典が送られてきていたのを弟に届けてリストに加えてもらいました。
 また、リストに1人関係が不明な人の名前がある、と言うので見ると、母の従兄弟の妹でした。エンディングノートには家系図も書かれていたのですが、兄の方の名前はあったものの、その妹さんの名前は書かれていなかったので、私も知らなかったのですが、メールで「妹に行ってもらいます」と知らせがあったのでわかったのです。
 残された者に家系図だとか、交友関係のどういうお友達か、という事もぜひ住所録その他に書き添えておかないといけないなと再び思いました。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-27 22:18 | しみじみしたこと | Comments(2)

後片付け(1)母に食べてもらいたかった…

 母のいなくなったマンションの、郵便物の転送手続きをし、冷蔵庫の物が悪くならないうちにと、食品を中心に今日は片付けに行ってきました。気づいて部屋と庭の鉢植えに水をやったり、玄関の花瓶の花を捨てたりもしました。
 また、母がその日に脱いだパジャマやら、着ていた衣服がポリ袋に入っていたのを持ち帰ることにしたりも。
 目的の冷蔵庫の中身。冷凍庫のドアの所に、私も民生委員として1人暮らしのお年寄りに配布して回った、緊急情報キットの筒が入っていました。母の場合は1人で亡くなったけれど、すぐに弟夫婦が来ていたから、これは幸いにも消防署員も開けて見なくても済んだというわけです。
 
 食品類を持参の発泡スチロールのボックスに詰めました。牛乳は消費期限ぎりぎりでこの日に行っていてよかった。
また、昆布の佃煮だの細く切ったたくあんだの、梅干しだのがこまごまとあったりしたので、年寄のお楽しみか、と思ったり、大根だとか人参、キャベツの小さくなったの、玉ねぎの4分の1残ったのがあったりして、ちゃんと料理して食べていたのがわかりました。
 そんな中に、金曜日の家計簿の購入欄に「ブランデーケーキ」とあり、市販の1切れずつに切って包装されたブランデーケーキがありました。(しめしめ、帰っておやつに食べようっと)…

 帰宅後、おやつに一切れ食べてみたら、添加物のような味を感じて期待したほどおいしくなく、成分表示を見るとはたして、乳化剤、PH調整剤、増粘剤、ソルビトール(?)などが書かれていました。
 その途端、私が友愛セールのために一生懸命作ったフルーツケーキは、娘の所のご両親にも好評だったのに、実家の母には食べてもらったことがあったかな?とたとえようもない後悔の念が湧いてきました。なかなか会えない、というか忙しさのあまりに、また元気でいてくれるからと信じていたので会いに行こうとしなかった母に、私の作ったおいしいケーキを食べてもらいたかった、と思うと、亡くなってから初めて、悲しみが湧いてきました。

 フルーツケーキの種は先日仕込んだばかりでまだ熟成していないので、思い立って母の台所から持ち帰った完熟バナナを使ってバナナケーキを焼き、弟の所にできた祭壇にお供えしてもらうことにしました。弟の娘も2歳の息子を連れて里帰りしているので、おやつにしてもらえるでしょう。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-26 17:21 | しみじみしたこと | Comments(2)

お通夜とお葬式

 24日(水)午後6時からのお通夜のために祭壇が出来ていました。祭壇の中央には、母が喜寿の記念にと写真屋さんで撮ってもらった薄緑色の気に入りの和服を着た写真。しゃきっとしていてちょっと微笑んでいて、母らしいいい遺影でした。遺影のそばに大きなカサブランカとトルコキキョウを、ほかはうねるように弧を描いた白菊やアルストロメリヤなどでした。孫一同7人分として一番大きな生花を一対。私と下の弟からは盛り籠。それぞれの勤め先関係からのお花やら盛り籠が届き、徐々に祭壇がにぎやかになってきました。
 また、会場入り口には持参した母の編集していたアルバム3冊を広げておいて皆さんに見てもらえるようになっていました。

 22年前の父の葬儀の時には、現在上の弟が住んでいる田舎の実家で行われたので、近所の株うちの人やご近所さんたちが手伝ってくれていたのですが、時代が変わり葬祭場で行われるわが身内の最初の葬儀は父の時とは全く違いました。
 お通夜には夫と私の長男、次男とお嫁さんと孫もやってきました。母には二人の弟がいて、上の弟の次女になる内科医の従姉妹は診察後も忙しいとの事で、その姉が1人きました。父には二人の妹がいて、上の妹の子供になる従兄弟2人もやってきました。
 お通夜の後の会食、いわゆる通夜振舞いはそれぞれの関係を紹介し合い、和気あいあい。故人が呼び寄せてくれた久々の対面。
 北海道から帰ってきた私の下の弟夫婦と、上の弟が葬儀場に泊まることになり、夜9時ごろには母方の従姉妹(内科医)が会いに来るとの事でしたが、会葬者は8時頃解散しました。

 25日(木)の葬儀にはわが家の長男の運転する車で長男一家とともに出かけました。
 葬儀は、親類の他には、弟夫婦の住む地元の町内会の人が来てくれていましたが、母が暮らしていたわけではなかったので、母にはなじみのない人達でした。母が夫の赴任地に残って長年1人暮らした児島の色々なグループの人たちは、遠かったために来ていただけなかったようです。母のためには淋しいことでしたが、代々の菩提寺のお世話になるためもあり、弟の住む地元での葬儀となったのです。
 でも母にとって母方の従姉妹2人が来てくれていて、その兄は名古屋に出張中のため妹に行ってもらいます、とのメールが来ていました。また、ついこの間義母の三回忌で会っていたばかりの義妹も。
 母が呼び寄せてくれた従兄弟、従姉妹たちと、父の葬儀以来22年ぶりくらいに再会することができました。

 式場には母にとって3人の子供とその連れ合い、7人の孫のうち北海道の2人を除く5人、7人のひ孫がいました。先日お会いしたあるお坊さんによると、小さい子は「座敷の花」、と言うのだそうです。式の間ちょっと声を出す子もいましたが母の子孫たちがこれだけいてありがたいこと、と思いました。ご導師により読経と母の経歴をいわゆる引導文と言うのでしょうか、読み上げていただき、皆でお別れしつつお花を棺に飾ってゆくこともできました。アナウンスにより、母の望んでいたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流されました。
https://youtu.be/t3Jv2L7l5p0

 お骨も拾って葬儀と初七日の法事の儀式も終わっての会席では、食事しながら聞かれるままに母の亡くなった時の様子を喪主になった上の弟が詳しく説明。幼い子どもを連れたお嫁さんらが早めに帰って行く中、残っていた父の下の妹の娘2人がとても喜んでくれて、父の上の妹の息子2人と一緒の記念撮影。彼ら・彼女らに会わせてくれたのは故人の功徳と言うものでしょう。

 亡くなったのが突然でばたばた、心の準備も何もなく体力的にも大変でしたが、いわゆる「家族葬」にしないで、にぎやかなのが好きだった母のために大勢でのお葬式にしたのがよかったなと思いました。
 記憶・記録のためにここに書き残しました。 

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by kurashiki-keiko | 2016-02-26 02:23 | しみじみしたこと | Comments(1)

葬儀に向けて

 22日(月)、帰宅したら12時ごろだったでしょうか。年賀状のファイルを持ち帰ったので、「筆まめ」住所録にそれを転記してファイルにしたのですが、多くは住所しかわからず、電話番号がある人の物も、本文から母との関係性を推察することができるものはほとんどありませんでした。
 一覧表にして五十音順に並べ替え、プリントアウトしたら明け方になっていました。
 
 23日(火)、眠気覚ましにキシリトールガムをかみかみ、月曜日に検死をしてもらった市民病院へ寄って「検案書」をもらい、次いで母のマンションに寄って、葬儀に必要な母が使っていた茶碗とお箸、それに母が丁寧に編集していたアルバムの中から最近のを3冊、集まった方々に見ていただくために持ちました。それから、経験上、これからどんどん増えていくはずの必要書類をファイルして行けるようなクリヤファイルを弟嫁にあげようと購入。これは後で本当によく役に立ったようです。合わせて私が作っていた義母の葬儀やその後相続のために必要だった書類のファイルも参考になるかと持って行きました。

 11時の約束には30分ばかり遅れて葬祭場へ到着、弟夫婦と打ち合わせに加わりました。お通夜の後の「通夜ぶるまい」の会食の人数とお葬式の後の会食の人数把握、祭壇、お棺、骨壺のそれぞれのカタログを見てランクを決めるなどの打ち合わせが1時半近くまでかかりました。祭壇は花好きだった母のために、よく見かけるお宮のような屋台をなくして、ご本尊の掛け軸以外にはお花をいっぱい飾ることにしました。母のエンディングノートには、「好きな花:トルコキキョウ」とありそれも使っていただけることになりました。また、お葬式で流してもらいたい曲として、「ラヴェルの『逝ける王女のためのパヴァーヌ』、ショパンの『別れの曲』、メンデルスゾーン『バイオリン協奏曲』など」ともあり、それらを探してもらうことに。その段階で、お香典をいただいた時にお返しに差し上げる、このあたりで言う「茶の子」に付ける挨拶状の文章を私が考えることにしました。

 午後2時からは菩提寺に行って、お坊さんとの打ち合わせをすることになっており、葬祭場での打ち合わせが長引いてお昼はとっくに過ぎ、コンビニでサンドイッチと飲み物を買って車中で。
 5分遅れくらいでお寺に到着。そこでは引導文というのか、あの世に送るための故人の経歴をお坊さんが唱えるのに必要なので、母の経歴を弟たちとお話しました。その話をしながら、先ほどの挨拶状の内容を考えていました。
 再び葬祭場に帰り、翌日母の遺体を湯灌していただくのが11時からとなりました。本来なら亡くなった翌日がお通夜、翌々日が告別式と言う段取りのところ、葬祭場がふさがっていたために一日先送りになったのでした。
 前の日ほぼ徹夜だったもので、帰り道はガムがなかったら多分居眠り運転で危なかったのでした。それでも母の履歴を、言われた800字で表そうと、再び夜の作業に取りかかりました。母は活発に色々なグループに入って活動していたので、それらを落とさないようにと思いながら仕上げ、メール添付で葬祭場へ。
 
 24日(水)は、我が家の下の孫を預かることになっていたのをすっかり忘れておりましたが、夫が休みを取っていたため夫に託して、湯灌の立会いのために、渋滞の時間を見越して9時15分くらいに家を出ました。ところが割合早く行けて1時間も前に到着してしまいました。
 そこで持っていた母の年賀状リストから、勇気を出して携帯で連絡してみました。何件かかけるうちに母が生前参加していた「みんなの雑記帳」という随筆集の会のメンバーと、目の不自由な人のための朗読奉仕の会のメンバーの方に連絡が付き、それぞれのメンバーにお知らせをしていただくようにお願いすることができました。
 親族の内、最後まで連絡がつかなかったのが母の下の弟にあたる叔父さん。自宅に電話しても出ず、携帯は電源が切られていて、何度も連絡を試みましたがその時点では連絡がついていませんでした。
 
 母の湯灌は、「おくりびと」の映画でも描かれた納棺師の、若い男性と女性2人の3人組でした。最初に大きなバスタオルを掛けた母の足先からのど元まで、親族が1人ずつひしゃくで湯をかけていくことや、タオルでお顔を拭いてあげること等をさせてもらいました。弟の長男やそのお嫁さん、母にとってひ孫にあたる子供2人も立ち会い見守りました。
 あとはお任せして、屏風を立てた向こう側でシャンプーやら体をお湯で洗ってもらうやらして、持って行った母の不祝儀着を着せてもらいました。死出の旅路のための手甲脚絆は向うの準備品。お化粧は、弟が持ち帰っていた母のバッグから出てきた母自身の口紅を使ってもらいました。お化粧を終えた母の顔を見ると、突然だったので病みやつれもなく、ごく自然で普通の母の顔、にしてもらっていてよかったです。
 屏風のこちら側では会葬者やら食事人数を把握したり、生花やら盛り籠やらの手配、私はあいさつ文の原稿の注文は800字だったのを、定型のあいさつ文をつけるので600字に、と言われて編集作業をしていました。試し刷りを見ると、上手に短くまとめてくれていました。
 湯灌は思ったよりずっと丁寧で2時間かかりました。

 お通夜の2時間前の4時に会館に行くことにしてそれまでの約3時間を弟夫婦と昼食を取ったり弟夫婦の家に一緒に行かせてもらったり。叔父の事が気になっていましたが、最後には弟が叔父の勤め先に連絡することを思い付きました。電話すると、個人情報だから教えられない、と言われ、叔父にとって姉が亡くなったことを伝えると、やっと本人から電話がありました。午後3時過ぎの事でした。叔父の息子に当たる従兄弟ともその時点でやっと連絡が取れ、叔父は忙しくてお通夜はとても無理、従兄弟は来てくれることに。
 一番遠い私の下の弟夫婦は雪の札幌・千歳から飛行機で。上の弟の娘は夫の赴任先の北京から飛行機で関空へ飛び、帰ってきました。父の葬儀以来22年も会っていなかった従姉妹とも連絡が出来、姉妹で大阪・神戸から来てくれることになりました。「伯母さんには会いたかった、知らせてくれてありがとう」。

 

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by kurashiki-keiko | 2016-02-25 03:30 | がんばったなあ | Comments(0)

青天の霹靂

 2月22日はにゃんにゃんにゃん、で、猫の日なんだそうですが、夫の出勤した後はお掃除、布団干し、孫娘のおひな様を出したり、買い物に、おかずのまとめ作りにと家事に奮闘。買い物に手間取ったのと、おかずのまとめ作りのため夕食が7時頃になり、食器洗いを終えたところで弟からの電話。
 「お母さんが今日は家の電話にも携帯にも出ないしメールも返信がないので来てみたら、ドアにチェーンがかかっていて、これはと思って救急車を呼んで、やっとチェーンを外して中に入ってもらったら、心肺停止だって、病院に運んでも蘇生する見込みがないんだって」
 「えー!!!!」
 こういうのをまさしく青天の霹靂と言うのでしょう。そういえば、私の家族新聞、日曜に本局で投函したら月曜には届くはずで、たいていすぐにお礼のメールが来るのに今日は来なかった…
 わー。
 とる物とりあえず、夫と夜道を車を飛ばしました。
 母は賃貸マンションの8階に父を亡くしてから20年以上1人暮らしをしていました。最近では弟が一緒に住まないか、と言ったそうですが、まだ一人でやれる、と断ったと聞いていました。
 着くと、マンションの入り口横の部屋で弟夫婦が警察官の事情聴取の最中で、居間に母が倒れていて、というか枕をして横になった体がドアのガラス越しに見えました。どうやらばったりと倒れたのではなくて、自分から横になっていたようです。よく見る刑事ドラマみたいに警察官が3人くらい、足にポリ袋のようなものを履いて現場検証の最中。
 弟夫婦によると、母は金曜日に微熱があって病院を受診し、胃に負担になるからと言うので座薬をもらって、日曜日には治まった様子で、弟夫婦とうどんを食べに行っておしゃべりをして、月曜にまた10時半に病院の予約があるからと言っていた、と言うのです。
 なので夕方弟嫁が様子を聞こうと電話してもメールしても返事がない、と言うので、仕事帰りの弟と二人で様子を見に着たら、ドアチェーンがかかったままになっていて、中は暗く、大声で呼んでも出て来ないので、救急に連絡、するとレスキュー隊が来て、ドアチェーンを切ろうとしたが切らずに外すことができたそうです。が、そのまま入らずにまずはガス漏れ検知をしてから、弟たちは入れてもらえず、彼らが入ったら心肺停止、蘇生の見込みなし、とのことで病院に搬送されることもなく、あとは警察に連絡された、との事。
 警察の検視があるので居間には入れず、しばらく弟夫婦が警察官に昨日の様子などを聞きとられていました。警察としては不審死扱いなので、「悩みがなかったか」つまり自殺の線がないかと言うおたずねまであり、弟が「高齢者の自動車教習を受けるかどうか、とは言っていた」。母に悩み事がありそうには到底思えませんでしたが。

そして、銀色の寝袋のようなものに包まれて、すぐ近くの市民病院に検死に運ばれて行きました。1時間くらいかかるが、その間に帰ってきたら顔に掛ける白い布を用意しておくように、と言われました。白い布、と言ったって普段一緒でないので勝手がわからず、24時間スーパーに行ってハンカチを買い、ついでに夕食も食べてないらしい弟夫婦にサンドイッチを買って。
 台所の流しには朝食の食器が洗い桶に入っていて、どうやら朝食を済ませ、これから病院へ、というところで様子がおかしくなり、枕をして横になって休んでそれっきり、と言う感じだったことがわかりました。
 玄関横の部屋のデスクには、金曜日からの病院受診にかかった費用を書いた家計簿のページが広げてあり、座薬をいつ入れたか書き込んでありました。お薬手帖は、と警察の人に言われて、それはなかったけれど、処方されたお薬の説明書が家計簿にはさんでありました。
家計簿、最後まできちんとつけていたのです。

 私は夫の両親を送った経験があるので、写真があるか聞くと、弟の家にあるそうなので一安心。そうだ、お棺に入れる時に、気に入りの着物がないかしら、と探すと、ほとんどをすでに処分してあったので、数はなかった中に、真新しいような不祝儀着がありました。本当は喪服でない気に入りの着物が着せたかったけれど、それが真新しかったので、襦袢やら帯やらも一通り袋に入れて、弟嫁には着物の事がさっぱりわからないので助かった、と言われました。夫の伯母が老人ホームに入るに当たり、我が家にそういう着物の一揃いと新しい足袋やら夫の遺影やら、女学校の卒業証書やらお花の免状やらを預けて行ったことがあったので、そこまでは行かなくても母も準備していたのかしら、と思いました。
 ほどなく警察官4人ほどに抱えられて遺体が帰ってきました。北向きに布団を敷いた上に寝かせてもらい、掛布団をかけてもらったところでちょうど葬祭業者さんの人がやってきてくれました。
 ストレッチャーをエレベーターにのせるためには奥側の所を広げる扉を開ける鍵が必要なのだそうですが、夜になって管理人さんは帰宅しているし、連絡方法がわからない、となって、やはり不織布のような布製の運搬用のものに包んでみんなで持ち上げて下まで下しました。弟夫婦の暮らす田舎の家近くの葬儀場へと運ばれて行きました。
 弟夫婦はそれを追って行き、私たちは帰宅。
 あまりの非日常の世界でまだ興奮冷めやらず、というか実母が亡くなったのにびっくりの方が先に立って、泣くことも忘れています。本当に先日まで元気だったものですから。死因は急性心筋梗塞とのこと。帰宅の車中で、そうだ、葬儀には本人が使っていたお茶碗にご飯を盛ってお箸を立てるのだった、そしてこの世に返って来ないようにと葬列が出たらお茶碗を割る、と言うのがあった、と思いだし、私が持って行くことになりました。
 弟との話によると、母は「エンディングノート」をすでに弟に託していて、葬儀で流す曲も書いてあったとのこと。クラシック好きな母の事だから、それはぜひかなえてあげよう、と話しています。母の終活、ずっと前から頑張って見事に終末を迎えました。

 知らせる範囲が、母の交遊関係がわからない…と言っていたら、そうだ、年賀状が来たばっかり、と言うのに気づき、そのファイルを私がもって帰ってリストアップすることになりました。母は父を送ってから活発に色々と交遊関係があったものですから、いったいいつのどういうお付き合いなのかが私には見当がつかないのが困ります。こういうのも終活の中に入れておくことが必要かもしれません。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-23 06:45 | 老いということ | Comments(2)

倉敷友の会のホームページを更新

 倉敷友の会ホームページ
   ↑
こちらを更新しました。小学生グループの活動をこれまで載せていなかったものですから。
よかったらご覧ください。
技術的には未熟なホームページですけれど。。。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-22 03:27 | がんばったなあ | Comments(2)

家族新聞あじさい通信226号ができました

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2月14日、バレンタインデーに義母の三回忌があり、一族が集まったのが大きなイベントでした。
義兄の娘と義妹の息子たちがそれぞれ仕事で来られなくて非常に残念でしたが、娘婿が座をにぎやかにしてくれて楽しく会食ができました。 
 また、その時に夫が休日にはテレビでごろ寝(私が地域の役で会合があることがこの頃増えたので)と言うのを心配してか、ゴルフをしようと誘ってくれ、昨日早速娘も入れて3人で打ちっぱなしに行ってくれたのは良かったです。夫、十数年ぶりかでクラブを握り、あまり打てなかったみたいでしたが、寝たきり老人予備軍から脱出してくれるとよいのですが。
 あとは次男の所の孫がつかまり立ちを始めたことや、長女の所の孫の工作を写メールしてくれたのを入れました。牛乳パックで作ったらしい吹き矢で射的の的もそれぞれ自分の嫌いな物に当たると点数が大きいのだそうです。
 前回、和尚さんにお礼かたがた写真とこちらの新聞を送ったところ、今回も楽しみにしているとの事、この後お送りする予定です。
 前回の225号をこちらに載せるのをすっかり忘れていたことに今気が付きました。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-21 10:51 | 家族新聞 | Comments(2)

ホームページを更新

 倉敷友の会では、来たる3月4日(金)に「倉敷友の会フェスタ」を催します。
くわしくは倉敷友の会ホームページをご覧ください。

2月19日(金)にはリハーサルをしました。一応の様子がつかめてきました。これから細かい仕上げ作業や詰めの話し合いがもたれます。


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by kurashiki-keiko | 2016-02-20 06:15 | ニュース | Comments(0)

うれしい便り

 もう立春も過ぎたというのに、年賀はがきが郵便受けに入っていました。赤い千代紙を細く切ったものが上下に貼ってあって、きちんとした文字、それは大学の卒論でお世話になった恩師からのものでした。
 もう何年かお返事がなくて、きっと忙しく飛び回っておられるのかしら、と思っていたら、脳梗塞で丸二年たったというのでした。読み書きが全くできなかった段階から、今は読むのが7割、書くのが2割程度、との事。なのに文字も文章も昔のまま、私のお出しした内容に対してきちんと答えておられて。こんなになるまで年賀状のお礼を書けなくて、とありました。感動しました。

 学生時代、そのS先生は若手で、国文学のルーツを訪ねる京都奈良の旅行では観光ガイドそこのけに寺院や仏像の見どころを解説してくださるので私は出来るだけ最前列で聞くようにしていました。飛鳥や斑鳩の寺寺を巡り歩き、山の辺の道も、日暮れに心細くなるまでしっかり歩きました。夜は学者や学生向けの日吉館という宿で、関連した文学のプリントを元にみっちりと勉強がありました。先生について行ったおかげで、有名な奈良のお水取りも、二月堂の「おたいまつ」という、大きなたいまつを回廊の角の所でわさわさと降るその火の粉を浴びたり、夜中にお堂の中で行われる僧たちの荒々しい修行の様子を格子越しに見学しお水取りのお水を手のひらにいただいて飲んだりする経験もさせていただきました。
 卒論では、多くの学生たちが、東雲荘(しののめそう)という、当時詩人の永瀬清子さんが大家さんの、6畳?3畳、台所トイレ、風呂なし、と言うアパートに押し掛けて最終原稿を見てもらっていました。私もなかなか書けなくてその中にいました。食事は炊飯器で一杯に炊いたご飯でおにぎりを作り、寝るのはお布団を敷きつめてみんなで雑魚寝、時刻は明け方。ほんと、女子ばかりだからそんなこともできたのでしょう。
さらに私は、年越しを先生の豊橋のご実家にまで押しかけて行って泊めていただき、甥御さんに豊川稲荷まで初詣に連れて行っていただいたり、兄嫁さんにお雑煮やおせちをいただいたりもしました。
 卒論の最中にあの三島由紀夫が自決するという事件やら、浅間山荘の攻防の事件があったりした、そんな騒然とした時代でした。私の高校時代の同級生もその連合赤軍の中で命を落とした人がいたことが後でわかりました。
 今は過ぎ去ったそんな私の青春時代を思い出した恩師からの便りでした。

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by kurashiki-keiko | 2016-02-20 04:23 | しみじみしたこと | Comments(0)